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日蓮大聖人・池田大作

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一念三千法門  (5/5) 法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一…
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あるものなり況や人界をや、法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く「上中下根皆記莂を与う」と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、況や教外別伝の坐禅をや、法師品に云く「薬王多く人有て在家出家の菩薩の道を行ぜんに若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば当に知るべし是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜず、若し是の経典を聞くこと得ること有らば乃ち能善菩薩の道を行ずるなり」と云云、観心計りにて成仏すべくんば争か見聞読誦と云わんや、此の経は専ら聞を以て本と為す凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す故に即身成仏と申し一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ、義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ我即歓喜諸仏亦然云云、百千合せたる薬も口にのまざれば病愈えず蔵に宝を持ども開く事をしらずしてかつへ懐に薬を持ても飲まん事をしらずして死するが如し、如意宝珠と云う玉は五百弟子品の此の経の徳も又此くの如し、観心を並べて読めば申すに及ばず観念せずと雖も始に申しつるごとく所謂諸法如是相如云云と読む時は如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力・其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、所謂諸法如是相云云とよめば是れ仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり、所謂諸法如是と読む時は是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く、此の十如是・三転によまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一に定まれども三なり。


十法界事

                    正元元年 三十八歳御作

二乗三界を出でざれば即ち十法界の数量を失う云云、問う十界互具を知らざらん者六道流転の分段の生死を出離して変易の土に生ず可きや、答う二乗は既に見思を断じ三界の生因無し底に由つてか界内の土に生る事を得ん是の故に二乗永く六道に生ぜず、故に玄の第二に云く「夫れ変易に生るに則ち三種有り三蔵の二乗・通教の三乗・別教の三十心」已上此の如き等の人は皆通惑を断じ変易の土に生ずることを得て界内分段の不浄の国土に生ぜず。

難じて云く小乗の教は但是れ心生の六道を談じて是れ心具の六界を談ずるに非ず、是の故に二乗は六界を顕さず心具を談ぜず云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ず可きや、故に寿量品に云える一切世間・天・人・阿修羅とは爾前迹門・両教の二乗・三教の菩薩・並に五時の円人を皆天人・修羅と云う豈に未断見思の人と云うに非ずや、答う十界互具とは法華の淵底・此の宗の沖微なり四十余年の諸経の中には之を秘して伝えず、但し四十余年の諸の経教の中に無数の凡夫・見思を断じて無漏の果を得・能く二種の涅槃の無為を証し塵数の菩薩・通別の惑を断じ頓に二種の生死の縛を超ゆ、無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説くと雖も而も猶爾前・三乗の益を許す、法華の中に於て正直捨方便と説くと雖も尚見諸菩薩授記作仏と説く此くの如き等の文爾前の説に於て当分の益を許すに非ずや、但し爾前の諸経に二事を説かず謂く実の円仏無く又久遠実成を説かず故に等覚の菩薩に至るまで近成を執する思い有り此の一辺に於て天人と同じく能迷の門を挙げ生死煩悩・一時に断壊することを証せず故に唯未顕真実と説けり、六界の互具を明さざるが故に出ず可からずとは此の難甚だ不可なり、六界互具せば即ち十界互具す可し何となれば権果の心生とは六凡の差別なり心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや。


第三重の難に云く所立の義誠に道理有るに似たり委く一代聖教の前後を撿うるに法華本門並に観心の智慧を起さざれば円仏と成らず、故に実の凡夫にして権果だも得ず所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ、如来出世して四顛倒を破せんが為に苦・空等を説く此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり、是の故に外道の我見を破して無我に住するは火を捨てて以て水に随うが如し堅く無我を執して見思を断じ六道を出ずると謂えり、此れ迷の根本なり故に色心倶滅の見に住す大集等の経経に断常の二見と説くは是れなり、例せば有漏外道の自らは得道すと念えども無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し、仏教に値わずして三界を出ずるといわば是の処有ること無し小乗の二乗も亦復是くの如し、鹿苑施小の時外道の我を離れて無我の見に住す此の情を改めずして四十余年草庵に止宿するの思い暫くも離るる時無し、又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや、又妙楽大師の云く「但し心を観ずと言わば則ち理に称わず」文、此の釈の意は小乗の観心は小乗の理に称わざるのみ、又天台の文句第九に云く「七方便並に究竟の滅に非ず」已上、此の釈は是れ爾前の前三教の菩薩も実には不成仏と云えるなり、但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云うは、天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時過去の世に於て法華結縁の輩有り爾前の中に於て且らく法華の為に三乗当分の得道を許す所謂種熟脱の中の熟益の位なり是は尚迹門の説なり、本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、故に釈に云く「円乗の外を名けて外道と為す」文、又「諸善男子・楽於小法・徳薄垢重者」と説く若し爾れば経釈共に道理必然なり、答う執難有りと雖も其の義不