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日蓮大聖人・池田大作

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守護国家論  (8/42) 是の悪比丘は利養の為の故に是の経を広宣流布…
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如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり、乃至・譬えば牧牛女の多く水を乳に加うるが如く諸の悪比丘も亦復是の如し雑るに世語を以てし錯りて是の経を定む多くの衆生をして正説・正写・正取・尊重・讃歎・供養・恭敬することを得ざらしむ是の悪比丘は利養の為の故に是の経を広宣流布すること能わず分流すべき所少く言うに足らず彼の牧牛の貧窮の女人展転して乳を売るに乃至糜と成して乳味無きが如し、是の大乗経典・大涅槃経も亦復是の如く展転薄淡にして気味有ること無し気味無しと雖も猶余経に勝る是れ一千倍なること彼の乳味の諸の苦味に於て千倍勝ると為すが如し何を以ての故に是の大乗経典・大涅槃経は声聞の経に於て最上首為り」是十

問うて云く不了義経を捨てて了義経に就くとは、大円覚修多羅了義経・大仏頂如来密因修証了義経是の如き諸大乗経は皆了義経なり依用と為す可きや、答えて云く了義・不了義は所対に随つて不同なり二乗菩薩等の所説の不了義に対すれば一代の仏説皆了義なり仏説に就て小乗経は不了義・大乗経は了義なり大乗に就て又四十余年の諸経は不了義経・法華・涅槃・大日経等は了義経なり而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり法華経の如き了義には非ざるなり。

問うて云く華厳・法相・三論等の天台真言より已外の諸宗の高祖・各其の依憑の経経に依つて其の経経の深義を極めたりと欲えり是れ爾る可しや如何、答えて云く華厳宗の如きは華厳経に依つて諸経を判じて華厳経の方便と為すなり、法相宗の如きは阿含・般若等を卑しめ華厳・法華・涅槃を以て深密経に同じ同じく中道教と立つると雖も亦法華・涅槃は一類の一乗を説くが故に不了義経なり深密経には五性各別を論ずるが故に了義経と立つるなり、三論宗の如きは二蔵を立てて一代を摂し大乗に於て浅深を論ぜず而も般若経を以て依憑と為す、此等の諸宗の高祖・多分は四依の菩薩なるか定めて所存有らん是非に及ばず。

然りと雖も自身の疑を晴らさんが為に且らく人師の異解を閣いて諸宗の依憑の経経を開き見るに華厳経は旧訳


は五十・六十・新訳は八十・四十・其の中に法華涅槃の如く一代聖教を集めて方便と為すの文無し、四乗を説くと雖も其の中の仏乗に於て十界互具・久遠実成を説かず但し人師に至つては五教を立てて先の四教に諸経を収めて華厳経の方便と為す、法相宗の如きは三時教を立つる時・法華等を以て深密経に同ずと雖も深密経五巻を開き見るに全く法華等を以て中道の内に入れず。

三論宗の如きは二蔵を立つる時・菩薩蔵に於て華厳法華等を収め般若経に同ずと雖も新古の大般若経を開き見るに全く大般若を以て法華涅槃に同ずるの文無し華厳は頓教・法華は漸教等とは人師の意楽にして仏説に非ざるなり。

法華経の如きは序分無量義経に慥に四十余年の年限を挙げ華厳・方等・般若等の大部の諸経の題名を呼んで未顕真実と定め正宗の法華経に至つて一代の勝劣を定むる時・我が所説の経典・無量千万億・已説・今説・当説の金言を吐いて、而も其の中に於て此の法華経は最も難信難解なりと説き給う時・多宝仏・地より涌出し妙法蓮華経皆是真実と証誠し分身の諸仏十方より悉く一処に集つて舌を梵天に付け給う。

今此の義を以て余推察を加うるに唐土・日本に渡れる所の五千七千余巻の諸経・以外の天竺・竜宮・四王天・過去の七仏等の諸経並に阿難の未結集の経・十方世界の塵に同ずる諸経の勝劣・浅深・難易・掌中に在り無量千万億の中に豈釈迦如来の所説の諸経を漏らす可けんや已説・今説・当説の年限に入らざる諸経之れ有るべきや願わくば末代の諸人且らく諸宗の高祖の弱文・無義を閣きて釈迦多宝十方諸仏の強文有義を信ず可し、何に況や諸宗の末学・偏執を先と為し末代の愚者人師を本と為して経論を抛つ者に依憑すべきや、故に法華の流通たる雙林最後の涅槃経に仏・迦葉童子菩薩に遺言して言く「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ智に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」と云云。


予世間を見聞するに自宗の人師を以て三昧発得智慧第一と称すれども無徳の凡夫として実経に依つて法門を信ぜしめず不了義の観経等を以て時機相応の教と称し了義の法華涅槃を閣いて譏つて理深解微の失を付け如来の遺言に背いて「人に依つて法に依らざれ・語に依つて義に依らざれ・識に依つて智に依らざれ・不了義経に依つて了義経に依らざれ」と談ずるに非ずや、請い願わくば心有らん人は思惟を加えよ如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり文殊・迦葉・阿難・経を結集して已後・四依の菩薩重ねて出世し論を造り経の意を申ぶ末の論師に至つて漸く誤り出来す亦訳者に於ても梵漢未達の者・権教宿習の人有つて実の経論の義を曲げて権の経論の義を存せり、之に就て亦唐土の人師・過去の権教の宿習の故に権の経論心に叶う間・実経の義を用いず或は少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ、設い後に道理と念うと雖も或は名利に依り或は檀那の帰依に依つて権宗を捨てて実宗に入らず、世間の道俗亦無智の故に理非を弁えず但・人に依つて法に依らず設い悪法たりと雖も多人の邪義に随つて一人の実説に依らず、而るに衆生の機多くは流転に随う設い出離を求むとも亦多分は権経に依る、但恨むらくは悪業の身・善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ、然りと雖も今の世の一切の凡夫設い今生を損すと雖も上に出す所の涅槃経第九の文に依つて且らく法華・涅槃を信ぜよ其の故は世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し況や仏法の深義に於てをや、如来の滅後二千余年の間・仏法に邪義を副え来り万に一も正義無きか一代の聖教多分は誤り有るか、所以に心地観経の法爾無漏の種子・正法華経の属累の経末・婆沙論の一十六字・摂論の識の八九・法華論と妙法華経との相違・涅槃論の法華煩悩所汚の文・法相宗の定性無性の不成仏・摂論宗の法華経の一称南無の別時意趣・此等は皆訳者人師の誤りなり、此の外に亦四十余年の経経に於て多くの誤り有るか設い法華涅槃に於て誤有るも誤無きも四十余年の諸経を捨てて法華涅槃に随う可し其の証上に出し了んぬ況や誤り有る諸経に於て信心を致す者・生死を離るべきや。