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日蓮大聖人・池田大作

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顕仏未来記  (4/5) 月は西より出でて東を照し日は東より出でて西…
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疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや、疑つて云く何を以て汝之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く、妙楽大師の云く「豈中国に法を失いて之を四維に求むるに非ずや」等云云、天竺に仏法無き証文なり漢土に於て高宗皇帝の時北狄東京を領して今に一百五十余年仏法王法共に尽き了んぬ、漢土の大蔵の中に小乗経は一向之れ無く大乗経は多分之を失す、日本より寂照等少少之を渡す然りと雖も伝持の人無れば猶木石の衣鉢を帯持せるが如し、故に遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云、此等の釈の如くんば天竺漢土に於て仏法を失せること勿論なり、問うて云く月氏漢土に於て仏法無きことは之を知れり、東西北の三洲に仏法無き事は何を以て之を知る、答えて云く法華経の第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云、内の字は三洲を嫌う文なり、問うて曰く仏記既に此くの如し汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり、其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之れ有るか、所謂仏生の時・転法輪の時・入涅槃の時吉瑞・凶瑞共に前後に絶えたる大瑞なり、仏は此れ聖人の本なり経経の文を見るに仏の御誕生の時は五色の光気・四方に遍くして夜も昼の如し仏御入滅の時には十二の白虹・南北に亘り大日輪光り無くして闇夜の如くなりし、其の後正像二千年の間・内外の聖人・生滅有れども此の大瑞には如かず、而るに去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり、天台云く


「雨の猛きを見て竜の大なるを知り華の盛なるを見て池の深きを知る」等云云、妙楽の云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え、幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ、願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん、但し今夢の如く宝塔品の心を得たり、此の経に云く「若し須弥を接つて他方の無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず乃至若し仏の滅後に悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為難し」等云云、伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し・叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云、安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて三国四師と号く、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

  文永十年太歳癸酉後五月十一日      桑門日蓮之を記す


当体義抄

                    日蓮之を勘う

問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。

問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり、譬えば人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり、是くの如く意得れば悪迷の無明を捨て善悟の法性を本と為す可きなり、大円覚修多羅了義経に云く「一切諸の衆生の無始の幻無明は皆諸の如来の円覚の心従り建立す」云云、天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云、妙楽大師の釈に云く「理性体無し全く無明に依る無明体無し全く法性に依る」云云、無明は所断の迷・法性は所証の理なり何ぞ体一なりと云うやと云える不審をば此等