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日蓮大聖人・池田大作

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本尊供養御書 
1536

る時の水にもすぎて候ひき、いかに・めづらしからずとは・あそばされて候ぞ、されば其には多く候か・あらこひしあらこひし、法華経・釈迦仏にゆづりまいらせ候いぬ、定めて仏は御志をおさめ給うなれば御悦び候らん、霊山浄土へまひらせ給いたらん時・御尋ねあるべし、恐恐謹言。

  建治二年丙子九月十五日               日蓮花押

   九郎太郎殿御返事

本尊供養御書

                    建治二年十二月 五十五歳御作

                    与 南条平七郎

法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄・蹲鴟一駄・送り給び候い畢んぬ、法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり、譬えば金粟王と申せし国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ、玉泉に入りぬる木は瑠璃と成る・大海に入りぬる水は皆鹹し、須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し凡夫を仏に成し給ふ、蕪は鶉となり・山の芋はうなぎとなる・世間の不思議以て是くの如し。

何に況や法華経の御力をや、犀の角を身に帯すれば大海に入るに水・身を去る事五尺、栴檀と申す香を身にぬれば大火に入るに焼くること無し、法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず、法華経の第七に云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」等云云、事多しと申せども年せまり御使急ぎ候へば筆を留候い畢んぬ。

  建治二年丙子十二月 日               日蓮花押

   南条平七郎殿御返事


上野殿御返事

                    建治三年五月 五十六歳御作

五月十四日にいものかしら一駄・わざとおくりたびて候、当時のいもは人のいとまと申し珠のごとし・くすりのごとし、さてはおほせつかはされて候事うけ給わり候いぬ。

尹吉甫と申せし人は・ただ一人子あり・伯奇と申す、をやも賢なり・子もかしこし・いかなる人かこの中をば申したがふべきと・おもひしかども・継母より・よりよりうたへしに用いざりしほどに・継母すねんが間・やうやうのたばかりを・なせし中に、蜂と申すむしを我がふところに入れて・いそぎいそぎ伯奇にとらせて・しかも父にみせ・われをけそうすると申しなして・うしなはんとせしなり。

びんばさら王と申せし王は賢王なる上・仏の御だんなの中に閻浮第一なり、しかもこの王は摩竭提国の王なり、仏は又此の国にして法華経を・とかんとおぼししに・王と仏と一同なれば一定法華経とかれなんとみへて候しに、提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たよりなかりしかば・とかうはかりしほどに・頻婆沙羅王の太子阿闍世王をとしごろとかくかたらひて・やうやく心をとり・をやと子とのなかを申したがへて・阿闍世王をすかし父の頻婆沙羅王をころさせ・阿闍世王と心を一にし提婆と阿闍世王と一味となりしかば・五天竺の外道・悪人・雲かすみのごとくあつまり・国をたび・たからをほどこし・心をやわらげすかししかば・一国の王すでに仏の大怨敵となる、欲界・第六天の魔王・無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入りかはりしかば・形は人なれども力は第六天の力なり、大風の草木をなびかすよりも・大風の大海の波をたつるよりも・大地震の大地をうごかすよりも・大火の連宅をやくよりも・さはがしくをぢわななきし事


なり。

さればはるり王と申せし王は阿闍世王にかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす、阿闍世王は酔象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ、或は道に兵士をすへ・或は井に糞を入れ・或は女人をかたらひて・そら事いひつけて仏弟子をころす、舎利弗・目連が事にあひ・かるだいが馬のくそにうづまれし、仏はせめられて一夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり、世間の人のおもはく・悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思ひて信じたりし人人も音をのみて・もの申さず眼をとぢてものを・みる事なし、ただ舌をふり手をかきし計りなり、結句は提婆達多・釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし・仏の御身より血を出せし上・誰の人か・かたうどになるべき、かくやうやうになりての上・いかがしたりけん法華経をとかせ給いぬ、此の法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、文の心は我が現在して候だにも此の経の御かたきかくのごとし、いかにいわうや末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと説かれて候なり、此れをもつておもひ候へば仏・法華経をとかせ給いて今にいたるまでは二千二百二十余年になり候へども・いまだ法華経を仏のごとく・よみたる人は候はぬか、大難をもちてこそ・法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教大師こそ法華経の行者とは・みへて候しかども在世のごとくの大難なし、ただ南三・北七・南都・七大寺の小難なり、いまだ国主かたきとならず・万民つるぎをにぎらず・一国悪口をはかず、滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべく候なるに・同じほどの難だにも来らず・何に況やすぐれたる大難・多難をや。

虎うそぶけば大風ふく・竜ぎんずれば雲をこる・野兎のうそぶき驢馬のいはうるに・風ふかず雲をこる事なし、愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は国もさわかず事もをこらず、聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候、今日蓮は賢人にもあらず・まして聖人は・おもひも