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日蓮大聖人・池田大作

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種種御振舞御書  (11/17) わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の…
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持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。

さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし、わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、


ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ、さて在家の者ども申しけるは・此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ、念仏者・良観が弟子の持斎等が云く此の御房は謀叛の内に入りたりけるか、さて且くありて世間しづまる。

又念仏者集りて僉議す、かうてあらんには我等かつえしぬべし・いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ・いかんがせん、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観が弟子の道観等・鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す、此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす、夜もひるも高き山に登りて日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る、其の音声・一国に聞ふと申す、武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる、かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度ありしかども何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す、島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力


及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。

同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ申すともしらせ給はめ、又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり権大夫殿は民ぞかし、子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頸をば・ゑぞに・とられぬるぞ、是をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿・事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこ・あなかしこ・さ・いはざりけると・おほせ候なと・したたかに申し付け候いぬ。

さてかへりききしかば同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智人・をむろ等の御師・弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台・華厳等の諸宗を・みな胸にうかべたり、それに随いて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず雨しづかにて一日一夜ふりしかば・守殿御感