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日蓮大聖人・池田大作

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呵責謗法滅罪抄  (2/7) 前後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどか…
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大重罪消えかねて千劫・大阿鼻地獄に入つて二百億劫・三宝に捨てられ奉りたりき。

五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり、謗法の者は多くは無間地獄に生じ少しは六道に生を受く、人間に生ずる時は貧窮・下賤等・白癩病等と見えたり、日蓮は法華経の明鏡をもつて自身に引き向かへたるに都て・くもりなし、過去の謗法の我が身にある事疑いなし此の罪を今生に消さずば未来争か地獄の苦をば免るべき、過去遠遠の重罪をば何にしてか皆集めて今生に消滅して未来の大苦を免れんと勘えしに当世・時に当つて謗法の人人・国国に充満せり、其の上・国主既に第一の誹謗の人たり、此の時此の重罪を消さずば何の時をか期すべき、日蓮が小身を日本国に打ち覆うてののしらば無量無辺の邪法の四衆等・無量無辺の口を以て一時に訾るべし、爾の時に国主は謗法の僧等が方人として日蓮を怨み或は頸を刎ね或は流罪に行ふべし、度度かかる事、出来せば無量劫の重罪・一生の内に消なんと謀てたる大術・少も違ふ事なく・かかる身となれば所願も満足なるべし。

然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやしと・おぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞へ候は偏に只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押え難し、妙楽大師の釈に云く記七「故に知んぬ末代一時も聞くことを得聞き已つて信を生ずる事宿種なるべし」等云云、又云く弘二「運像末に在つて此の真文を矚る宿に妙因を殖うるに非ざれば実に値い難しと為す」等云云。

妙法蓮華経の五字をば四十余年・此れを秘し給ふのみにあらず迹門十四品に猶是を抑へさせ給ひ寿量品にして本果・本因の蓮華の二字を説き顕し給ふ、此の五字をば仏・文殊・普賢・弥勒・薬王等にも付属せさせ給はず、地涌の上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等を寂光の大地より召し出して此れを付属し給ふ、儀式ただ事


ならず宝浄世界の多宝如来・大地より七宝の塔に乗じて涌現せさせ給ふ、三千大千世界の外に四百万億那由佗の国土を浄め高さ五百由旬の宝樹を尽一箭道に殖え並べて・宝樹一本の下に五由旬の師子の座を敷き並べ十方分身の仏尽く来り坐し給ふ、又釈迦如来は垢衣を脱で宝塔を開き多宝如来に並び給ふ、譬えば青天に日月の並べるが如し帝釈と頂生王との善法堂に在すが如し、此の界の文殊等・他方の観音等・十方の虚空に雲集せる事・星の虚空に充満するが如し、此の時此の土には華厳経の七処八会・十方世界の台上の盧舎那仏の弟子・法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵等の十方刹土・塵点数の大菩薩雲集せり、方等の大宝坊・雲集の仏菩薩・般若経の千仏・須菩提帝釈等・大日経の八葉九尊の四仏・四菩薩・金剛頂経の三十七尊等・涅槃経の倶尸那城へ集会せさせ給いし十方法界の仏菩薩をば文殊・弥勒等互に見知して御物語り是ありしかば此等の大菩薩は出仕に物狎れたりと見え候、今此の四菩薩出でさせ給うて後・釈迦如来には九代の本師・三世の仏の御母にておはする文殊師利菩薩も一生補処と・ののしらせ給ふ弥勒等も此の菩薩に値いぬれば物とも見えさせ給はず、譬えば山かつが月卿に交り猨猴が師子の座に列るが如し、此の人人を召して妙法蓮華経の五字を付属せさせ給いき、付属も只ならず十神力を現じ給ふ、釈迦は広長舌を色界の頂に付け給へば諸仏も亦復是くの如く四百万億那由佗の国土の虚空に諸仏の御舌赤虹を百千万億・並べたるが如く充満せしかばおびただしかりし事なり、是くの如く不思議の十神力を現じて結要付属と申して法華経の肝心を抜き出して四菩薩に譲り、我が滅後に十方の衆生に与へよと慇懃に付属して其の後又一つの神力を現じて文殊等の自界他方の菩薩・二乗・天人・竜神等には一経乃至・一代聖教をば付属せられしなり、本より影の身に随つて候様につかせ給ひたりし迦葉・舎利弗等にも此の五字を譲り給はず此れは・さてをきぬ、文殊・弥勒等には争か惜み給うべき器量なくとも嫌い給うべからず、方方不審なるを或は他方の菩薩は此の土に縁少しと嫌ひ、或は此の土の菩薩なれども娑婆世界に結縁の日浅し、或は我が弟子なれども初発心の弟子にあらずと嫌はれさせ


給ふ程に、四十余年・並びに迹門十四品の間は一人も初発心の御弟子なし、此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来・教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候、天台の云く「但下方の発誓を見る」等云云、又云く「是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし」等云云、妙楽の云く「子父の法を弘む」等云云、道暹云く「法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云、此の妙法蓮華経の五字をば此の四人に譲られ候。

而るに仏の滅後・正法一千年・像法一千年・末法に入つて二百二十余年が間・月氏・漢土・日本・一閻浮提の内に未だ一度も出でさせ給はざるは何なる事にて有るらん、正くも譲らせ給はざりし文殊師利菩薩は仏の滅後四百五十年まで此の土におはして大乗経を弘めさせ給ひ、其の後も香山・清涼山より度度来つて大僧等と成つて法を弘め、薬王菩薩は天台大師となり観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり、迦葉阿難等は仏の滅後二十年・四十年・法を弘め給ふ、嫡子として譲られさせ給へる人の未だ見えさせ給はず、二千二百余年が間・教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし、釈迦如来は後五百歳と記し給ひ正像二千年をば法華経流布の時とは仰せられず、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」と未来に譲り、伝教大師は「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等と書き給いて、像法の末は未だ法華経流布の時ならずと我と時を嫌ひ給ふ、されば・をしはかるに地涌千界の大菩薩は釈迦・多宝・十方の諸仏の御譲り御約束を空く黙止て・はてさせ給うべきか。

外典の賢人すら時を待つ郭公と申す畜鳥は卯月五月に限る、此の大菩薩も末法に出ずべしと見えて候、いかんと候べきぞ瑞相と申す事は内典・外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり、蜘蛛かかつて喜事来り