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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (2/43) 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生…
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類いを以て如是我聞の者と云う可きなり云云。

第二 阿若憍陳如の事

疏の一に云く憍陳如は姓なり此には火器と翻ず婆羅門種なり其の先火に事こう此れに従て族に命く、火に二義有り照なり焼なり照は則ち闇生ぜず、焼は則ち物生ぜず・此には不生を以て姓と為す。御義口伝に云く火とは法性の智火なり、火の二義とは一の照は随縁真如の智なり一の焼は不変真如の理なり照焼の二字は本迹二門なり、さて火の能作としては照焼の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり生死即涅槃と開覚するを照則闇不生とは云うなり、煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり煩悩即菩提と開覚するを照則物不生とは云うなり、爰を以て之を案ずるに陳如は我等法華経の行者の煩悩即菩提生死即涅槃を顕したり云云。

第三 阿闍世王の事

文句の一に云く阿闍世王とは未生怨と名く、又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く又云く大経に云く阿闍を不生と名く世とは怨と名く。御義口伝に云く日本国の一切衆生は阿闍世王なり既に諸仏の父を殺し法華経の母を害するなり、無量義経に云く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生む、謗法の人・今は母の胎内に処しながら法華の怨敵たり豈未生怨に非ずや、其の上日本国当世は三類の強敵なり世者名怨の四字に心を留めて之を案ず可し。日蓮等の類い此の重罪を脱れたり謗法の人人法華経を信じ釈尊に帰し奉らば何ぞ已前の殺父殺母の重罪滅せざらんや、但し父母なりとも法華経不信の者ならば殺害す可きか、其の故は権教の愛を成す母・方便真実を明めざる父をば殺害す可しと見えたり、仍て文句の二に云く「観解は貪愛の母・無明の父・此れを害する故に逆と称す逆即順なり非道を行じて仏道に通達す」と、観解とは末法・当今は題目の観解なる可し子として父母を殺害するは逆なり、然りと雖も法華経不信の父母を殺しては順となるなり爰を以て逆即是順と釈せり、今日蓮等の


類いは阿闍世王なり其の故は南無妙法蓮華経の剣を取つて貪愛・無明の父母を害して教主釈尊の如く仏身を感得するなり、貪愛の母とは勧持品三類の中第一の俗衆なり無明の父とは第二第三の僧なり云云。

第四 仏所護念の事

文句の三に云く仏所護念とは無量義処は是れ仏の証得し給う所是の故に如来の護念し給う所なり、下の文に仏自住大乗と云えり開示せんと欲すと雖も衆生の根鈍なれば久しく斯の要を黙して務て速かに説き給わず故に護念と云う記の三に云く昔未だ説かず故に之を名けて護と為す法に約し機に約して皆護念する故に乃至機仍お未だ発せず隠して説かず故に護念と言う、乃至未説を以ての故に護し未暢を以ての故に念ず、久黙と言うは昔より今に至るなり斯要等の意之を思うて知る可し。

御義口伝に云く此の護念の体に於ては本迹二門首題の五字なり、此の護念に於て七種の護念之れ有り一には時に約し二には機に約し三には人に約し四には本迹に約し五には色心に約し六には法体に約し七には信心に約するなり云云、今日蓮等の類いは護念の体を弘むるなり、一に時に約するとは仏・法華経を四十余年の間未だ時至らざるが故に護念し給うなり、二に機に約するとは破法不信故墜於三悪道の故に前四十余年の間に未だ之を説かざるなり、三に人に約するとは舎利弗に対して説かんが為なり、四に本迹に約するとは護を以て本と為し念を以て迹と為す、五に色心に約するとは護を以て色と為し念を以て心と為す、六に法体に約するとは法体とは本有常住なり一切衆生の慈悲心是なり、七に信心に約するとは信心を以て護念の本と為すなり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは併ら護念の体を開くなり、護とは仏見なり、念とは仏知なり此の知見の二字本迹両門なり仏知を妙と云うなり仏見を法と云うなり此の知見の体を修行するを蓮華と云うなり、因果の体なり因果の言語は経なり加之法華経の行者をば三世の諸仏護念し給うなり、普賢品に云く一者為諸仏護念と護念とは妙法蓮華経なり諸仏の法華経の行者を護念したもうは妙法蓮華経を護念したもうなり機法一同護念


一体なり、記の三の釈に約法約機・皆護念故と云うは此の意なり、又文句の三に云く「仏所護念とは前の地動瑞を決定するなり地動は六番破惑を表するなり、妙法蓮華経を受持する者は六番破惑疑い無きなり」神力品に云く「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑」仏自住大乗とは是なり、又た一義に仏の衆生を護念したもう事は護とは唯我一人能為救護・念とは毎自作是念是なり、普賢品に至つて一者為諸仏護念と説くなり、日蓮は生年卅二より南無妙法蓮華経を護念するなり。

第五 下至阿鼻地獄の事

御義口伝に云く十界皆成の文なり提婆が成仏此の文にて分明なり、宝塔品の次に提婆が成仏を説く事は二箇の諫暁の分なり、提婆は此の文の時成仏せり此の至の字は白毫の行く事なり白毫の光明は南無妙法蓮華経なり、上至阿迦尼咜天は空諦・下至阿鼻地獄は仮諦・白毫の光は中道なり、之に依つて十界同時の成仏なり天王仏とは宝号を送るまでなり、去て依正二報の成仏の時は此の品の下至阿鼻地獄の文は依報の成仏を説き提婆達多の天王如来は正報の成仏を説く依報正報共に妙法の成仏なり、今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり、法華不信の人は堕在無間なれども、題目の光を以て孝子法華の行者として訪わんに豈此の義に替わる可しや、されば下至阿鼻地獄の文は仏・光を放ちて提婆を成仏せしめんが為なりと日蓮推知し奉るなり。

第六 導師何故の事

疏に云く良に以みれば説法入定して能く人を導く既に導師と称す。

御義口伝に云く此の導師は釈尊の御事なり、説法とは無量義経・入定とは無量義処三昧に入りたもう事なり、所詮導師に於て二あり悪の導師善の導師之れ有るなり、悪の導師とは法然・弘法・慈覚・智証等なり善の導師とは天台・伝教等是なり、末法に入つては今日蓮等の類いは善の導師なり、説法とは南無妙法蓮華経・入定とは法