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日蓮大聖人・池田大作

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衆生身心御書  (1/6) 譬へばさけもこのまぬをやのきわめてさけをこ…
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日蓮は凡夫なり天眼なければ一紙をもみとをすことなし、宿命なければ三世を知ることなし、而れども此の経文のごとく日蓮は肉眼なれども天眼宿命□□□日本国七百余歳の仏眼の流布せしやう、八宗・十宗の邪正漢土月氏の論師人師の勝劣・八万十二の仏経の旨趣をあらあらすいちし□□・我が朝の亡国となるべき事先に此れをかんがへて宛も符契のごとし、此れ皆法華経の御力なり、而るを国主は讒臣等が凶言を・をさめて・あだをなせしかば、凡夫なれば道理なりと・をもつて退する心なかりしかども・度度あだをな□□。

美食ををさめぬ人なれば力をよばず・山林にまじわり候いぬ、されども凡夫なればかんも忍びがたく・熱をもふせぎがたし、食ともし表○目が万里の一食・忍びがたく・思子孔が十旬・九飯堪ゆべきにあらず、読経の音も絶えぬべし・観心の心をろそかなり。

しかるに・たまたまの御とぶらいただ事にはあらず、教主釈尊の御すすめか・将又過去宿習の御催か、方方紙上に尽し難し、恐恐謹言。

衆生身心御書

衆生の身心をとかせ給う・其の衆生の心にのぞむとて・とかせ給へば人の説なれども衆生の心をいでず、かるがゆへに随他意の経となづけたり、譬へばさけもこのまぬをやのきわめてさけをこのむいとをしき子あり、かつはいとをしみ・かつは心をとらんがために・かれにさけをすすめんがために・父母も酒をこのむよしをするなり、しかるを・はかなき子は父母も酒をこのみ給うとをもへり

提謂経と申す経は人天の事をとけり、阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う、華厳経と申す経は菩薩のこと


なり、方等・般若経等は或は阿含経・提謂経ににたり、或は華厳経にもにたり、此れ等の経経は末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども・くはしく・これをろむずれば己が心をよむなり、己が心は本よりつたなき心なれば・はかばかしき事なし、法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う、仏の御心はよき心なるゆへに・たとい・しらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし、麻の中のよもぎ・つつの中のくちなは・よき人にむつぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひも・言も・なをしくなるなり、法華経もかくのごとし・なにとなけれども・この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり、此の法華経にをひて又機により・時により・国により・ひろむる人により・やうやうにかわりて候をば・等覚の菩薩までも・このあわひをば・しらせ給わずとみへて候、まして末代の凡夫は・いかでか・ちからひををせ候べき。

しかれども人のつかひに三人あり、一人はきわめてこざかしき、一人ははかなくもなし・又こざかしからず、一人はきわめて・はかなくたしかなる、此の三人に第一はあやまちなし、第二は第一ほどこそ・なけれども・すこしこざかしきゆへに主の御ことばに私の言をそうるゆへに・第一のわるきつかいとなる、第三はきわめて・はかなくあるゆへに・私の言をまじへず・きわめて正直なるゆへに主の言ばを・たがへず、第二よりもよき事にて候・あやまつて第一にも・すぐれて候なり、第一をば月支の四依にたとう、第二をば漢土の人師にたとう、第三をば末代の凡夫の中に愚癡にして正直なる物にたとう。

仏在世はしばらく此れををく仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す、この正法一千年を二つにわかつ、前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う、ひろめし人人は迦葉・阿難等なり、後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等・権大乗経を弘通せさせ給う、法華経をば・かたはし計りかける論師もあり、又つやつや申しいださぬ人もあり、正法一千年より後の論師の中には少分を仏説ににたれども多分をあやまりあり、あやまりなくして而も


たらざるは迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親等なり、像法に入り一千年・漢土に仏法わたりしかば始めは儒家と相論せしゆへに・いとまなきかのゆへに仏教の内の大小・権実の沙汰なし、やうやく仏法流布せし上・月支より・かさねがさね仏法わたり来るほどに・前の人人は・かしこきやうなれども・後にわたる経論をもつて・みれば・はかなき事も出来す、又はかなくをもひし人人も・かしこくみゆる事もありき、結句は十流になりて千万の義ありしかば愚者はいづれに・つくべしともみへず、智者とをぼしき人は辺執かぎりなし、而れども最極は一同の義あり・所謂一代第一は華厳経・第二は涅槃経・第三は法華経・此の義は上一人より下万民にいたるまで異義なし、大聖とあうぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義一同なりしゆへなり。

而るを像法の中の陳隋の代に智顗と申す小僧あり後には智者大師とがうす、法門多しといへども詮するところ法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つ計りなり、智顗法師云く仏法さかさまなり云云、陳主此の事をたださんがために南北の十師の最頂たる恵暅僧上・恵光僧都・恵栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時・法華経の中には「諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、又云く「已今当説最為難信難解」等云云、已とは無量義経に云く「摩訶般若華厳海空」等云云、当とは涅槃経に云く「般若はら蜜より大涅槃を出だす」等云云、此の経文は華厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆる事赫赫たり・明明たり・御会通あるべしと・せめしかば、或は口をとぢ・或は悪口をはき・或は色をへんじなんど・せしかども、陳主立つて三拝し百官掌をあわせしかば力及ばずまけにき。

一代の中には第一法華経にてありしほどに像法の後の五百に新訳の経論重ねてわたる大宗皇帝の貞観三年に玄奘と申す人あり・月支に入りて十七年・五天の仏法を習いきわめて貞観十九年に漢土へわたりしが・深密経・瑜伽論・唯識論・法相宗をわたす、玄奘云く「月支に宗宗多しといへども此の宗第一なり」大宗皇帝は又漢土第一の賢王なり・玄奘を師とす、此の宗の所詮に云く「或は三乗方便・一乗真実」或は一乗方便・三乗真実・又云く「五性は