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日蓮大聖人・池田大作

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上野殿後家尼御返事  (3/3) 方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相…
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なり・これ妙の一字の功徳なり。

竜樹菩薩の云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、妙楽大師云く「豈伽耶を離れて別に常寂を求めん寂光の外・別に娑婆有るに非ず」云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」云云、法華経に云く「諸法実相乃至・本末究竟等」云云、寿量品に云く「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等云云、此の経文に我と申すは十界なり・十界本有の仏なれば浄土に住するなり、方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云、世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあらず・をどろくべきにあらず、相の一字は八相なり・八相も生死の二字をいでず、かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申すなり、故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、ただし聖人の上にも・これあるなり、釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・凡夫のふるまひを示し給うか。

いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよと・をしへ給う・ことわりにもや候らん、此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘しさせ給へ、あなかしこ・あなかしこ。

  七月十一日                     日蓮花押

   上野殿後家尼御前御返事


上野殿御返事

                    文永十一年七月 五十三歳御作

鵞目十連・かわのり二帖・しやうかう二十束・給候い畢んぬかまくらにてかりそめの御事とこそ・をもひまいらせ候いしに、をもひわすれさせ給わざりける事申すばかりなし、こうへのどのだにも・をはせしかば・つねに申しうけ給わりなんとなげき・をもひ候いつるに、をんかたみに御みをわかくして・とどめをかれけるか・すがたのたがわせ給わぬに、御心さひにられける事いうばかりなし、法華経にて仏にならせ給いて候とうけ給わりて、御はかにまいりて候いしなり、又この御心ざし申すばかりなし、今年のけかちにはじめたる山中に木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみか・をもひやらせ給え、このほどよみ候御経の一分をことのへ廻向しまいらし候、あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候いし、妙荘厳王は二子にみちびかる、かの王は悪人なり、こうへのどのは善人なり、かれにはにるべくもなし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

   七月二十六日                   日蓮花押

    御返事

 人にあながちにかたらせ給うべからず、若き殿が候へば申すべし。


上野殿御返事

                    文永十一年十一月 五十三歳御作

                    与 南条七郎次郎

聖人二管・柑子一籠・𦶠■十枚・薯蕷一籠・牛房一束・種種の物送り給び候。

得勝・無勝の二童子は仏に沙の餅を供養したてまつりて・閻浮提三分が一の主となる所謂阿育大王これなり、儒童菩薩は錠光仏に五茎の蓮華を供養したてまつりて仏となる・今の教主釈尊これなり、法華経の第四に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復彼れに過ぎん」等云云、文の心は仏を一中劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う、たれの人のかかるひが事をばおほせらるるぞと疑いおもひ候へば・教主釈尊の我とおほせられて候なり、疑はんとも信ぜんとも御心にまかせまいらする、仏の御舌は或は面に覆ひ・或は三千大千世界に覆ひ或は色究竟天までに付け給う、過去遠遠劫よりこのかた一言も妄語のましまさざるゆへなり、されば或経に云く「須弥山はくづるるとも・大地をばうちかへすとも仏には妄語なし」ととかれたり、日は西よりいづとも・大海の潮はみちひずとも・仏の御言はあやまりなしとかや、其の上此の法華経は他経にもすぐれさせ給へば・多宝仏も証明し諸仏も舌を梵天につけ給う、一字一点も妄語は候まじきにや。

其の上殿はをさなくをはしき、故親父は武士なりしかども・あなかちに法華経を尊み給いしかば・臨終正念なりけるよしうけ給わりき、其の親の跡をつがせ給いて又此の経を御信用あれば・故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん、あわれいきてをはせば・いかにうれしかるべき、此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいり