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日蓮大聖人・池田大作

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六郎恒長御消息 
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せしめん」と云云、毎自作是念の念とは一念三千生仏本有の一念なり、秘す可し秘す可し、恐恐謹言。

  弘安三年十一月三日                 日蓮花押

    最蓮房に之を送る

六郎恒長御消息

                    文永元年九月 四十三歳御作

                    与 南部六郎恒長  於安房

所詮念仏を無間地獄と云う義に二つ有り、一には念仏者を無間地獄とは日本国・一切念仏衆の元祖法然上人の選択集に浄土三部を除いてより以外・一代聖教・所謂法華経・大日経・大般若経等・一切大小の経を書き上げて捨閉閣抛等云云、之に付いて上人亀鏡と挙られし処の浄土三部経の其の中に、雙観経・阿弥陀仏の因位・法蔵比丘の四十八願に云く唯五逆と誹謗正法とを除くと云云、法然上人も乃至十念の中には入れ給ふといえども、法華経の門を閉じよと書かれ候へば・阿弥陀仏の本願に漏れたる人に非ずや、其の弟子其の檀那等も亦以て此くの如し、法華経の文には若し人信ぜずして、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らんと云云、阿弥陀仏の本願と法華経の文と真実ならば法然上人は無間地獄に堕ちたる人に非ずや、一切の経の性相に定めて云く師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀那堕つと云云、譬えば謀叛の者の郎従等の如し、御不審有らば選択を披見あるべし是一

二には念仏を無間地獄とは法華経の序分・無量義経に云く「方便の力を以て四十年には未だ真実を顕さず」云云、次下の文に云く「無量無辺を過ぐるとも乃至終に無上菩提を成ずることを得じ」云云、仏初成道の時より白鷺池の辺に至るまで年紀をあげ四十余年と指して其の中の一切経を挙ぐる中に大部の経四部・其の四部の中に次に方等十二部経を説くと云云、是れ念仏者の御信用候三部経なり、此れを挙げて真実に非ずと云云、次に法華経


に云く「世尊の法は久しくして後要当に真実を説くべし」とは念仏等の不真実に対し南無妙法蓮華経を真実と申す文なり、次下に云く「仏は自ら大乗に住したまへり乃至若し小乗を以て化すること乃至一人に於てせば我即ち慳貪に堕す此の事は為て不可なり」云云、此の文の意は法華経を仏胸に秘しをさめて観経念仏等の四十余年の経計りを人人に授けて法華経を説かずして黙止するならば我は慳貪の者なり三悪道に堕すべしと云う文なり、仏すら尚唯念仏を行じて一生をすごし法華経に移らざる時は地獄に堕すべしと云云、況や末代の凡夫一向に南無阿弥陀仏と申して一生をすごし法華経に移つて南無妙法蓮華経と唱えざる者三悪道を免るべきや、第二の巻に云く今此三界等と云云、此の文は日本国六十六箇国嶋二つの大地は教主釈尊の本領なり娑婆以て此くの如く全く阿弥陀の領に非ず、其中衆生悉是吾子と云云、日本国の四十九億九万四千八百二十八人の男女各父母有りといへども其の詮を尋ぬれば教主釈尊の御子なり、三千余社の大小の神祇も釈尊の御子息なり全く阿弥陀仏の子に非ざるなり。

  文永元年甲子九月 日                日蓮花押

   南部六郎恒長殿

波木井三郎殿御返事

                    文永十年八月 五十二歳御作

                    与 南部六郎三郎

鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り之を召して御尊び有る可し御談義有る可し大事の法門等粗ぼ申す、彼等は日本に未だ流布せざる大法少少之を有す随つて御学問注るし申す可きなり。鳥跡飛び来れり不審の晴ること疾風の重雲を巻いて明月に向うが如し、但し此の法門当世の人上下を論ぜず信


心を取り難し其の故は仏法を修行するは現世安穏・後生善処等と云云、而るに日蓮法師法華経の行者と称すと雖も留難多し当に知るべし仏意に叶わざるか等云云、但し此の邪難先業の由・御勘気を蒙るの後始めて驚く可きに非ず、其の故は法華経の文を見聞するに末法に入つて教の如く法華経を修行する者は留難多かる可きの由・経文赫赫たり眼有らん者は之を見るか、所謂法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云又云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し刀杖瓦礫を加うる有らん」等云云、又云く「悪世の中の比丘」等云云、又云く「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在る有らん乃至白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん」等云云、又云く「常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲する故に国王・大臣・波羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説かん」等云云、又云く「悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」等云云、又云く「数数擯出せらる」等云云、大涅槃経に云く「一闡提・羅漢の像を作し空閑の処に住し方等大乗経典を誹謗すること有るを諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢なり是れ大菩薩なりと謂わん」等云云、又云く「正法滅して後・像法の中に於て当に比丘有るべし持律に似像して少しく経を読誦し飲食を貪嗜し其の身を長養し乃至袈裟を服すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺ふが如し」等云云、又般泥洹経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有り、乃至」等云云、予此の明鏡を捧げ持つて日本国に引き向けて之を浮べたるに一分も陰れ無し或有阿蘭若・納衣在空閑とは何人ぞや為世所恭敬如六通羅漢とは又何人ぞや、諸凡夫見已・皆謂真阿羅漢・是大菩薩とは此れ又誰ぞや、持律少読誦経とは又如何、是の経文の如く仏・仏眼を以て末法の始を照見したまい当世に当つて此等の人人無くんば世尊の謬乱なり、此の本迹二門と雙林の常住と誰人か之を信用せん今日蓮仏語の真実を顕さんが為日本に配当して此の経を読誦するに或有阿蘭若住於空処等と云うは、建長寺・寿福寺・極楽寺・建仁寺・東福寺等の日本国の禅・律・念仏等の寺寺なり、是等の魔