Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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守護国家論  (17/42) 一旦の欲心に依つて
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以て正義と存じ此の国に流布せしむるが故に国中の万民悉く法華・真言に於て時機不相応の想を作す、其の上世間を貪る天台真言の学者世の情に随わんが為に法華真言に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依つて釈迦多宝並に十方諸仏の御評定の「令法久住・於閻浮提広宣流布」の誠言を壊り一切衆生をして三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ、偏に是れ悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い、乃至・悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる故なり。

問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く「初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな。

爰に源空の門弟・師の邪義を救つて云く諸宗の常の習い設い経論の証文無しと雖も義類の同じきを聚めて一処に置く而も選択集の意は法華真言等を集めて雑行の内に入れ正行に対して之を捨つ偏に経の法体を嫌うに非ず但風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め此の機に易行の法を撰ぶ時・称名の念仏を以て其の機に当て易行の法を


以て諸教に勝ると立つ権実浅深の勝劣を詮ずるに非ず、雑行と云うも嫌つて雑と云うに非ず雑と云うは不純を雑と云う其の上諸の経論並に諸師も此の意無きに非ず故に叡山の先徳の往生要集の意偏に是の義なり。

所以に往生要集の序に云く「顕密の教法は其の文一に非ず事理の業因其の行惟れ多し利智精進の人は未だ難しと為ず予が如き頑魯の者豈敢てせんや是の故に念仏の一門に依る」と云云、此の序の意は慧心先徳も法華真言等を破するに非ず但偏に我等頑魯の者の機に当つて法華真言は聞き難く行じ難きが故に我身鈍根なるが故なり敢て法体を嫌うに非ず、其の上序より已外正宗に至るまで十門有り大文第八の門に述べて云く「今念仏を勧むること是れ余の種種の妙行を遮するに非ず只是れ男女・貴賤・行住坐臥を簡ばず時処諸縁を論ぜず之を修するに難からず乃至・臨終には往生を願求するに其の便宜を得ること念仏には如かず」已上此等の文を見るに源空の選択集と源信の往生要集と一巻三巻の不同有りと雖も一代聖教の中には易行を撰んで末代の愚人を救わんと欲する意趣は但同じ事なり、源空上人・法華真言を難行と立てて悪道に堕せば慧心先徳も亦此の失を免るべからず如何、答えて云く汝・師の謗法の失を救わんが為に事を源信の往生要集に寄せて謗法の上に弥重罪を招く者なり其の故は釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百


千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。

其の上悪人愚人を扶くること亦教の浅深に依る阿含十二年の戒門には現身に四重五逆の者に得道を許さず、華厳方等般若雙観経等の諸経は阿含経より教深き故に勧門の時は重罪の者を摂すと雖も猶戒門の日は七逆の者に現身の受戒を許さず、然りと雖も決定性の二乗・無性の闡提に於て誡勧共に之を許さず、法華涅槃等には唯五逆七逆謗法の者を摂するのみに非ず亦定性無性をも摂す、就中末法に於ては常没の闡提之多し豈観経等の四十余年の諸経に於て之を扶く可けんや無性の常没・決定性の二乗は但法華涅槃等に限れり、四十余年の経に依る人師は彼の経の機と取る此の人は未だ教相を知らざる故なり。

但し往生要集は一往序分を見る時は法華真言等を以て顕密の内に入れて殆ど末代の機に叶わずと書すと雖も文に入つて委細に一部三巻の始末を見るに、第十の問答料簡の下に正しく諸行の勝劣を定むる時・観仏三昧・般舟三昧・十住毘婆沙論・宝積・大集等の爾前の経論を引いて一切の万行に対して念仏三昧を以て王三昧と立て了んぬ、最後に一つの問答有り爾前の禅定・念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに百千万億倍劣ると定む、復問を通ずる時念仏三昧を万行に勝るると云うは爾前の当分なりと云云、当に知るべし慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり、例せば仏の四十余年の経を以て権機を調え法華経に入れ給うが如し。

故に最後に一乗要決を造る其の序に云く「諸宗の権実は古来の諍いなり倶に経論に拠て互いに是非を執す、余寛弘丙午の歳冬十月病中に歎いて云く仏法に遇うと雖も仏意を了せず若し終に手を空うせば後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義・賢哲の章疏或は人をして尋ねしめ或は自ら思択し全く自宗他宗の偏党を捨つる時・専ら権智実智の深奥を深ぐるに終に一乗は真実の理・五乗は方便の説を得る者なり、既に今生の蒙を開く何ぞ夕死の恨を残さん