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日蓮大聖人・池田大作

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滝泉寺申状  (1/5) 愚癡の輩・短才の族・経経顕然の正説を伺わず…
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の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故なり、夫れ仏法は王法の崇尊に依つて威を増し王法は仏法の擁護に依つて長久す、正法を学ぶの僧を以て外道と称せらるるの条理豈然る可けんや外道か外道に非ざるか早く厳誉律師と召し合わせられ真偽を糺されんと欲す。

且去る文応年中・師匠日蓮聖人・仏法の廃れたるを見・未来の災を鑒み諸経の文を勘え一巻の書を造る立正安国論と号す、異国の来難果して以て符合し畢んぬ未萠を知るを聖と謂つ可きか、大覚世尊・霊山・虚空・二処・三会・二門・八年の間・三重の秘法を説き窮むと雖も仏滅後二千二百二十余年の間・月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師・漢土の天台・妙楽・日本の伝教大師等・内には之を知ると雖も外に之を伝えず第三の秘法今に残す所なり、是偏に末法闘諍の始・他国来難の刻・一閻浮提の中の大合戦起らんの時・国主此の法を用いて兵乱に勝つ可きの秘術なり、経文赫赫たり所説明明たり、彼れと云い此れと云い国の為・世の為・尤も尋ね聞し食さるべき者なり、仍て款状を勒して各言上件の如し。

                              承 賢

                              賢 秀

   弘安元年三月  日                  日 持

                              日 興

滝泉寺申状

                 弘安二年十月 五十八歳御代作

駿河の国・富士下方滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す。


当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事。

訴状に云く日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す云云取意

此の条は日弁等の本師日蓮聖人・去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執著し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す勘え申す所皆以て符合す既に金口の未来記に同じ宛も声と響との如し、外書に云く「未萠を知るは聖人なり」内典に云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る」云云、之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな巧匠内に在り国宝外に求む可からず、外書に云く「隣国に聖人有るは敵国の憂なり」云云、内経に云く「国に聖人有れば天必ず守護す」云云、外書に云く「世必ず聖智の君有り而して復賢明の臣有り」云云、此の本文を見るに聖人・国に在るは日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし、君既に賢人に在さば豈聖人を用いずして徒に他国の逼を憂えん。

抑大覚世尊・遙に末法闘諍堅固の時を鑒み此くの如きの大難を対治す可きの秘術を説き置かせらるるの経文明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず、随つて四依の大士内に鑒みて説かず天台伝教而も演べず時未だ至らざるの故なり、法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云、天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則五濁の生・闘諍の時」云云、東勝西負の明文なり。

法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為臣の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え


申すと雖も御信用無きの上・剰さえ謗法人等の讒言に依つて聖人・頭に疵を負い左手を打ち折らるる上・両度まで遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され毒害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難勝げて計う可からず、茲に因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り万民悉く一闡提の人と為るの故に天神・国を捨て地神・所を辞し天下静ならざるの由・粗伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり、外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。

又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云、其の状を見聞するに去る元暦・承久の両帝・叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校長吏等の諸の真言師を請い向け内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍並に故平右虎牙の日記なり、此の法を修するの仁は敬つて之を行えば必ず身を滅し強いて之を持てば定めて主を失うなり、然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し叡山の明雲は流矢に当り後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ東寺・御室は自ら高山に死し北嶺の座主は改易の恥辱に値う、現罰・眼に遮り後賢之を畏る聖人・山中の御悲みは是なり。

次ぎに阿弥陀経を以て例時の勤と為す可きの由の事、夫れ以みれば花と月と水と火と時に依つて之を用ゆ必ずしも先例を追う可からず、仏法又是くの如し時に随つて用捨す、其の上・汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実の小経なり、一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者は多年の間・此の経を読誦するも終に成仏を遂げず然る後・彼の経を抛ち末に法華経に至つて華光如来と為る、況や末代悪世の愚人・南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて順次往生を遂ぐ可しや、故に仏・之を誡めて言く法華経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」と云云教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまう云云又涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も若し衆生の虚妄の説に因るを知れば」と云云、正しく弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり、法華経に云く「但楽て大乗経典を受持し乃至余経