Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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大田殿許御書  (3/3) 民の愁い積りて国を亡す
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云、此れ等の僻文は螢火を日月に同じ大海を江河に入るるか。

疑つて云く経経の勝劣之れを論じて何か為ん、答えて曰く法華経の第七に云く「能く是の経典を受持する者有れば亦復是くの如し一切衆生の中に於て亦為第一なり」等云云、此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云、第八の譬・兼ねて上の文に有り所詮仏の意の如くならば経の勝劣を詮ずるのみに非ず法華経の行者は一切の諸人に勝れたるの由之れを説く、大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民なり、法華経の行者は須弥山・日月・大海等なり、而るに今の世は法華経を軽蔑すること土の如し民の如し真言の僻人等を重崇して国師と為ること金の如し王の如し之に依つて増上慢の者・国中に充満す青天瞋を為し黄地夭孼を致す涓聚りて墉塹を破るが如く民の愁い積りて国を亡す等是なり、問うて曰く内外の諸釈の中に是くの如きの例之れ有りや、答えて曰く史臣呉競が太宗に上つる表に云く「竊かに惟れば太宗文武皇帝の政化・曠古より之れ求むるに未だ是くの如くの盛なる者有らず唐堯・虞舜・夏禹・殷湯・周の文武・漢の文景と雖も皆未だ逮ばざる処なり」云云、今此の表を見れば太宗を慢ぜる王と云う可きか政道の至妙・先聖に超えて讃ずる所なり、章安大師天台を讃めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真丹の人師何ぞ労く語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、従義法師重ねて讃めて云く「竜樹・天親未だ天台には若かず」伝教大師自讃して云く「天台法華宗の諸宗に勝るることは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず庶くば有智の君子経を尋ねて宗を定めよ」云云、又云く「能く法華を持つ者は亦衆生の中の第一なり已に仏説に拠る豈自讃ならんや」云云、今愚見を以つて之を勘うるに善無畏・弘法・慈覚・智証等は皆仏意に違うのみに非ず或は法の盗人或は伝教大師に逆える僻人なり、故に或は閻魔王の責を蒙り或は墓墳無く或は事を入定に寄せ或は度度・大火・大兵に値えり権者は辱を死骸に与えざる処の本文に違するか、疑つて云く六宗の如く真言の一宗も天台に落たる状之れ有りや、答う記の十の末に之を載せたり、


随つて伝教大師・依憑集を造つて之を集む眼有らん者は開いて之を見よ、冀哉末代の学者妙楽・伝教の聖言に随つて善無畏・慈覚の凡言を用ゆること勿れ、予が門家等深く此の由を存ぜよ、今生に人を恐れて後生に悪果を招くこと勿れ、恐恐謹言。

  正月廿四日                     日蓮花押

   大田金吾入道殿

太田殿女房御返事

                    建治元年 五十四歳御作

                    於身延

八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明に候ぞ、爾ればとて彼の経経の人人の即身成仏と申すは二の増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり、記の九に云く「然して二の上慢深浅無きにあらず如と謂うは乃ち大無慙の人と成る」等云云、諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門はいみじくをそたかき・やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず、其の心は二乗と申す者は鹿苑にして見思を断じて・いまだ塵沙無明をば断ぜざる者が我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智の者となれり、灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし、されば凡夫は煩悩業もあり苦果の依身も失う事なければ煩悩業を種として報身・応身ともなりなん、苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと二乗をこそ弾呵せさせ給いしか、さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり


此の法門をだにも・くはしく案じほどかせ給わば華厳・真言等の人人の即身成仏と申し候は依経に文は候へども其の義はあえてなき事なり僻事の起り此れなり。

弘法・慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候、何に況や其の已下の古徳・先徳等は言うに足らず、但天台の第四十六の座主・東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ、然れども天台の座主慈覚の末をうくる人なれば・いつわりをろかにて・さてはてぬるか、其の上日本国に生を受くる人はいかでか心には・をもうとも言に出し候べき、しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は即身成仏は法華経に限ると・をぼしめされて候ぞ、我が弟子等は此の事を・をもひ出にせさせ給へ。

妙法蓮華経の五字の中に諸論師・諸人師の釈まちまちに候へども皆諸経の見を出でず、但竜樹菩薩の大論と申す論に「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と申す釈こそ此の一字を心へさせ給いたりけるかと見へて候へ、毒と申すは苦集の二諦・生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし、此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を妙の極とは申しけるなり、良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり、此の竜樹菩薩は大論と申す文の一百の巻に華厳・般若等は妙にあらず法華経こそ妙にて候へと申す釈なり、此の大論は竜樹菩薩の論・羅什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり、天台大師は此の法門を御らむあつて南北をば・せめさせ給いて候ぞ、而るを漢土唐の中・日本弘仁已後の人人の悞の出来し候いける事は唐の第九・代宗皇帝の御宇不空三蔵と申す人の天竺より渡して候論あり菩提心論と申す、此の論は竜樹の論となづけて候、此の論に云く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕て書せず」と申す文あり、此の釈にばかされて