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日蓮大聖人・池田大作

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王日女殿御返事 
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王日女殿御返事

                    弘安三年 五十九歳御作

弁房の便宜に三百文今度二百文給び畢んぬ、仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子は沙の餅を仏に供養し奉りて阿育大王と生れて一閻浮提の主たりき、貧女の我がかしらをおろして油と成せしが須弥山を吹きぬきし風も此の火をけさず、されば此の二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を忉利天にくみあげたらんにも・すぐるべし、法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む・一字は日月の如し四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる・苗変じて草となる・草変じて米となる・米変じて人となる・人変じて仏となる・女人変じて妙の一字となる・妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

   王日殿                      日蓮花押


御輿振御書

                    文永元年三月 四十三歳御作

                    与 三位公日行

御文並びに御輿振の日記給び候いぬ悦び入つて候、中堂炎上の事・其の義に候か山門破滅の期・其の節に候か、此等も其の故無きに非ず天竺には祇園精舎・雞頭摩寺・漢土には天台山・正像二千年の内に以て滅尽せり、今末法に当つて日本国計りに叡山有り三千界の中の但此の処のみ有るか、定めて悪魔一跡に嫉を留むるか、小乗権教の輩も之を妬むか、随つて禅僧・律僧・念仏者・王臣に之を訴へ三千人の大衆は我が山・破滅の根源とも知らず師檀共に破国・破仏の因縁に迷えり、但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳・於閻浮提・広宣流布の文か、又伝教大師の「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり」の釈なり、滅するは生ぜんが為下るは登らんが為なり、山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか、事事紙面に尽し難し早早見参を期す、謹言。

  三月一日                      日蓮花押

   御返事


法門申さるべき様の事

                    文永六年 四十八歳御作

                    与 三位公日行

法門申さるべきやう、選択をば・うちをきて先ず法華経の第二の巻の今此三界の文を開いて釈尊は我等が親父なり等定め了るべし、何の仏か我等が父母にてはをはします、外典三千余巻にも忠孝の二字こそせんにて候なれ忠は又孝の家より出ずとこそ申し候なれ、されば外典は内典の初門・此の心は内典にたがわず候か、人に尊卑・上下はありといえども親を孝するにはすぎずと定められたるか、釈尊は我等が父母なり一代の聖教は父母の子を教えたる教経なるべし、其の中に天上・竜宮・天竺なんどには無量無辺の御経ましますなれども、漢土日本にはわづかに五千・七千余巻なり、此等の経経の次第・勝劣等は私には弁えがたう候、而るに論師・大師・先徳には末代の人の智慧こへがたければ彼の人人の料簡を用ゆべきかのところに、華厳宗の五教四教・法相三論の三時二蔵・或は三転法輪・世尊法久後要当説真実の文は又法華経より出て候・金口の明説なり、仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり、かう立て申すならば人人さもやと・をぼしめしたらん時申すべし。

抑浄土の三部経等の諸宗の依経は当分四十余年の内なり、世尊は我等が慈父として未顕真実ぞと定めさせ給ふ御心は・かの四十余年の経経に付けとをぼしめし候か、又説真実の言にうつれとをぼしめし候か、心あらん人人・御賢察候べきかと・しばらくあぢわひてよも仏程の親父の一切衆生を一子とをぼしめすが真実なる事をすてて未顕真実の不実なる事に付けとは・をぼしめさじ、さて法華経にうつり候はんは四十余年の経経をすてて遷り候べきか、はた又かの経経並びに南無阿弥陀仏等をば・すてずして遷り候べきかと・おぼしきところに凡夫の私の・