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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (1/41) 三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王・帝…
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御講聞書

  自弘安元年三月十九日連連御講至同三年五月二十八日也仍記之畢

                               日向記之

凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり、されば大覚世尊は説時未至故と説かせ給いて説く可き時節を待たせ給いき、例せば郭公の春をおくり鶏鳥の暁を待ちて鳴くが如くなり、此れ即ち時を待つ故なり、されば涅槃経に云く以知時故名大法師と説かれたり、今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり、之に依つて一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経序品第一と題したり。

一妙法蓮華経序品第一の事

玄旨伝に云く、一切経の惣要とは謂く妙法蓮華経の五字なり、又云く、一行一切行恒修此三昧文、云う所の三昧とは即ち法華の有相無相の二行なり、此の道理を以て法華経を読誦せん行者は即ち法具の一心三観なり云云、此の釈に一切経と云うは近くは華厳・阿含・方等・般若等なり、遠くは大通仏より已来の諸経なり、本門の意は寿量品を除いて其の外の一切経なり、惣要とは天には日月・地には大王・人には神・眼目の如くなりと云う意を以つて釈せり、此れ即ち妙法蓮華経の枝葉なり、一行とは妙法の一行に一切行を納めたり、法具とは題目の五字に万法を具足すと云う事なり、然る間・三世十方の諸仏も上行菩薩等も・大梵天王・帝釈・四王・十羅刹女・天照太神・八幡大菩薩・山王二十一社・其の外・日本国中の小神・大神等・此の経の行者を守護すべしと・法華経の第五巻に分明に説かれたり、影と・身と・音と・響との如し、法華経二十八品は影の如く


響の如し、題目の五字は体の如く音の如くなり、題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし、譬えば小音なれども貝に入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり、かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを、謗る人何ぞ無間に堕在せざらんや、法然弘法等の大悪知識是なり。

一妙法

の二字は一切衆生の色心の二法なり、一代説教の中に法の字の上に妙の字を置きたる経は一経もなし、涅槃経の題目にも大涅槃経と云いて大の字あれども妙の字なし、但し大は只是れ妙と云えり然れども大と妙とは不同なり、同じ大なれども華厳経の大方広仏華厳経と云える題号の大と、涅槃経の大と天地雲泥なり、華厳経の大は無得道の大なり。涅槃経の大は法華同醍醐味の大なり、然れども然涅槃尚劣と云う時は法華経には劣れり、此の事は涅槃経に分明に法華経に劣ると説かれたり、涅槃経に云く如法華中八千声聞得受記莂成大果実如秋収冬蔵更無所作云云、此の文分明に我と法華経に劣れりと説かせ給えり。

一蓮華

とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有の因・本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり、五百塵点の法門とは此の事を説かれたり、本因の因というは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因と云うは信心領納の事なり、此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、仍て本因とは慧の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり、神力品に云く若しは山谷曠野等と説けり即ち是れ道場と見えたり豈法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。


一本因本果の事

法界悉く常住不滅の為体を云うなり、されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決に云く当知身土一念三千・故成道時称此本理一身一念遍於法界云云、此の釈分明に本因本果を釈したり、身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり一念とは此の衆生の念念の作業なり、故成道時称此本理とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり法界とは五大なり、所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前蓮華化生なれば称此本理の成道なり、本理に称うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり、法華経の本理に叶うとは此の経を持ち奉るを云うなり、若有能持則持仏身とは是なり。

一爾前無得道の事

此の法門は蓮華の二字より起れり、其の故は蓮華の二字を以て云うなり、三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり、権教に於て蓮華の沙汰無し若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし、三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る、妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり、華は本因・蓮は本果なれば華の本因を不信謗法の人豈具足せんや、経に云く若人不信毀謗此経則断一切世間仏種云云、此の蓮華に迷う故に十界具足無し、十界具足せざれば一念三千跡形無きなり、一切の法門は蓮華の二字より起れり、一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり深く之を案ず可し。

一序品の事

此の事は、教主釈尊・法華経を説き給わんとて先ず瑞相の顕れたる事を云うなり、今末法に入つて南無妙法蓮華経の顕われ給うべき瑞相は彼には百千万倍勝るべきなり、其の故は雨は竜の大小により蓮華は池の浅深に随つて其の色不同なるが如くなるべし。

一品と云う事

品とは、釈に云く義類同と云えり、此の法華経は三仏寄合い給いて定判し給えり、三仏とは釈迦・多宝・分身是なり、此の三仏・評定してのたまわく一切衆生皆成仏道は法華経に限りて有りと、皆是真実の