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日蓮大聖人・池田大作

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南条殿御返事 
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上野殿御返事

女子は門をひらく・男子は家をつぐ・日本国を知つても子なくは誰にか・つがすべき、財を大千にみてても子なくば誰にかゆづるべき、されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ、内典五千余巻には子なき人を貧人といふ、女子一人・男子一人・たとへば天には日月のごとく・地には東西にかたどれり、鳥の二つのはね・車の二つのわなり、さればこの男子をば日若御前と申させ給へ、くはしくは又又申すべし。

  弘安三年八月二十六日                日蓮花押

   上野殿御返事

南条殿御返事

はくまいひとふくろ・いも一だ給び了んぬ、抑故なんでうの七らうごらうどのの事、いままでは・ゆめかゆめか・まぼろしか・まぼろしかとうたがいて・そらごととのみをもひて候へば・此の御ふみにも・あそばされて候、さては、まことかまことかとはじめて・うたがいいできたりて候。


上野殿御書

大海の一渧は五味のあぢわい・江河の一渧は一つの薬なり、大海の一渧は万種の瓦のごとし、南無阿弥陀仏は一河の一渧・南無妙法蓮華経は大海の一渧・阿弥陀経は小河の一渧・法華経の一乗は大海の一てい、故五郎殿の十六年が間の罪は江河の一てい、須臾の間の南無妙法蓮華経は大海の一ていのごとし、夫れ以れば華はつぼみさいて菓なる、をやは死にて子にになわる、これ次第なり。

上野殿御書

南条七郎五郎殿の御死去の御事、人は生れて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば・始めてなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし・我も存じ人にもをしへ候へども・時にあたりて・ゆめか・まぼろしか・いまだわきまへがたく候、まして母のいかんがなげかれ候らむ、父母にも兄弟にも・をくれはてて・いとをしきをとこに・すぎわかれたりしかども・子ども・あまたをはしませば心なぐさみてこそ・をはしつらむ、いとをしき・てこご・しかもをのこご・みめかたちも人にすぐれ心も・かいがいしくみへしかば・よその人人も・すずしくこそみ候いしに・あやなく・つぼめる花の風にしぼみ・満つる月の・にわかに失たるがごとくこそをぼすらめ、まこととも・をぼへ候はねば・かきつくるそらも・をぼへ候はず、又又申すべし、恐恐謹言。

  弘安三年九月六日                  日蓮花押

上野殿御返事

 追申、此の六月十五日に見奉り候いしに・あはれ肝ある者かな男や男やと見候いしに・又見候はざらん事こそ


かなしくは候へ、さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり。

上野殿母御前御返事

南条故七郎五郎殿の四十九日・御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄・すりだうふ・こんにやく・柿一籠・ゆ五十等云云御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。

抑法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて・而かも唯仏与仏と説かれて仏と仏とのみこそ・しろしめされて・等覚已下乃至凡夫は叶はぬ事に候へ。

されば竜樹菩薩の大論には仏已下はただ信じて仏になるべしと見えて候、法華経の第四法師品に云く「薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」等云云、第五の巻に云く「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、第七の巻に云く「此の法華経も亦復是くの如し諸経の中に於て最も其の上たり」又云く「最も照明たり最も其の尊たり」等云云、此等の経文私の義にあらず仏の誠言にて候へば定めて・よもあやまりは候はじ、民が家に生れたる者我は侍に斉しなんど申せば必ずとが来るまして我れ国王に斉し・まして勝れたりなんと申せば・我が身のとがと・なるのみならず・父母と申し妻子と云ひ必ず損ずる事・大火の宅を焼き大木の倒るる時・小木等の損ずるが如し。

仏教も又かくの如く華厳・阿含・方等・般若・大日経・阿弥陀経等に依る人人の我が信じたるままに勝劣も弁へずして・我が阿弥陀経等は法華経と斉等なり・将た又勝れたりなんど申せば・其の一類の人人は我が経をほめられ・うれしと思へども還つてとがとなりて・師も弟子も檀那も悪道に堕つること・箭を射るが如し、但し法華経の一切経