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日蓮大聖人・池田大作

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上野殿御返事  (1/4) 色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本…
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りもあをく・水よりもつめたき冰かなと・ありがたし・ありがたし、恐恐謹言。

  正月三日                      日蓮花押

   上野殿御返事

上野殿御返事

                    弘安二年四月二十日 五十八歳御作

抑日蓮・種種の大難の中には竜口の頸の座と・東条の難にはすぎず、其の故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり、或はのりせめ・或は処をおわれ・無実を云いつけられ・或は面をうたれしなどは・物のかずならず、されば色心の二法よりをこりてそしられたる者は日本国の中には日蓮一人なり、ただしありとも法華経の故にはあらじ、さてもさても・わすれざる事はせうばうが法華経の第五の巻を取りて日蓮がつらをうちし事は三毒より・をこる処のちやうちやくなり。

天竺に嫉妬の女人あり・男をにくむ故に家内の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの腹立にや・すがた・けしきかわり・眼は日月の光のごとくかがやきくちは炎をはくがごとし・すがたは青鬼赤鬼のごとくにて年来・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり・両の足にてさむざむにふみける、其の後命つきて地獄にをつ・両の足ばかり地獄にいらず・獄卒鉄杖をもつて・うてどもいらず、是は法華経をふみし逆縁の功徳による、今日蓮をにくむ故にせうぼうが第五の巻を取りて予がをもてをうつ・是も逆縁となるべきか、彼は天竺・此れは日本・かれは女人・これはをとこ・かれは両のあし・これは両の手・彼は嫉妬の故・此れは法華経の御故なり、されども法華経の第五の巻は・をなじきなり、彼の女人のあし地獄に入らざらんに此の両の手・無間に入るべきや、ただし彼は男をに


くみて法華経をば・にくまず、此れは法華経と日蓮とを・にくむなれば一身無間に入るべし、経に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、手ばかり無間に入るまじとは見へず不便なり不便なり、ついには日蓮にあひて仏果をうべきか不軽菩薩の上慢の四衆のごとし。

夫れ第五の巻は一経第一の肝心なり・竜女が即身成仏あきらかなり、提婆はこころの成仏をあらはし・竜女は身の成仏をあらはす、一代に分絶たる法門なり、さてこそ伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたる事を十あつめ給いたる中に・即身成仏化導勝とは此の事なり、此の法門は天台宗の最要にして即身成仏義と申して文句の義科なり・真言・天台の両宗の相論なり、竜女が成仏も法華経の功力なり、文殊師利菩薩は唯常宣説妙法華経とこそかたらせ給へ、唯常の二字は八字の中の肝要なり、菩提心論の唯真言法中の唯の字と・今の唯の字と・いづれを本とすべきや、彼の唯の字はをそらくはあやまりなり、無量義経に云く「四十余年未だ真実を顕さず」、法華経に云く「世尊の法は久くして後に要当に真実を説きたもうべし」、多宝仏は皆是真実とて法華経にかぎりて即身成仏ありとさだめ給へり、爾前経にいかように成仏ありともとけ・権宗の人人・無量にいひくるふとも・ただほうろく千につち一つなるべし、法華折伏・破権門理とはこれなり、尤もいみじく秘奥なる法門なり。

又天台の学者・慈覚よりこのかた玄・文・止の三大部の文をとかく・れうけんし義理をかまうとも・去年のこよみ昨日の食のごとし・けうの用にならず、末法の始の五百年に法華経の題目をはなれて成仏ありといふ人は・仏説なりとも用ゆべからず、何に況や人師の義をや、爰に日蓮思ふやう提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり、昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、古今能所不二にして法華の深意をあらわす、されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり・愚癡の竜女には智慧の文殊師となり・文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか、日本国の男は提婆がごとく・女は竜女にあひにたり、逆順ともに成仏を期すべきなり・是れ提婆品


の意なり。

次に勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国・唐土・天竺・三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりと・なのるべき人なし・又あるべしとも覚へず、及加刀杖の刀杖の二字の中に・もし杖の字にあう人はあるべし・刀の字にあひたる人をきかず、不軽菩薩は杖木・瓦石と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又かけたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします。

いま・をもひ・いでたる事あり、子を思ふ故にや・をやつぎの木の弓をもつて学文せざりし子にをしへたり、然る間・此の子うたてかりしは父・にくかりしは・つぎの木の弓、されども終には修学増進して自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、立ち還つて見れば・つぎの木をもつて我をうちし故なり、此の子そとばに此の木をつくり父の供養のためにたててむけりと見へたり、日蓮も又かくの如くあるべきか、日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。

又涌出品は日蓮がためには・すこしよしみある品なり、其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり、しかるに先日蓮一人出来す六万恒沙の菩薩より・さだめて忠賞をかほるべしと思へば・たのもしき事なり、とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ、殿一人にかぎるべからず・信心をすすめ