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日蓮大聖人・池田大作

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上野殿御返事 
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文をこのむ王に武のすてられ・いろをこのむ人に正直物のにくまるるがごとく・念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値うて法華経を・ひろむれば王臣・万民ににくまれて・結句は山中に候へば天いかんが計らわせ給うらむ、五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命すでに・をはりなんとす、かかるきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに・わづかの・ともしびに・あぶらを入そへられたるがごとし、あわれあわれたうとく・めでたき御心かな、釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか、恐恐謹言。

  弘安二年十二月廿七日                日蓮花押

   上野殿御返事

上野殿御返事

十字六十枚・清酒一筒・薯蕷五十本・柑子二十・串柿一連・送り給び候い畢んぬ、法華経の御宝前にかざり進らせ候、春の始め三日種種の物・法華経の御宝前に捧げ候い畢んぬ。

花は開いて果となり・月は出でて必ずみち・燈は油をさせば光を増し・草木は雨ふればさかう・人は善根をなせば必ずさかう、其の上元三の御志元一にも超へ、十字の餅・満月の如し、事事又又申すべく候。

  弘安三年庚辰正月十一日               日蓮花押

   上野殿


上野殿御返事

故上野殿・御忌日の僧膳料米一たはら・たしかに給び候い畢んぬ、御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし。

孝養と申すは・まづ不孝を知りて孝をしるべし、不孝と申すは酉夢と云う者・父を打ちしかば天雷身をさく・班婦と申せし者・母をのりしかば毒蛇来りてのみき、阿闍世王・父をころせしかば白癩病の人となりにき、波瑠璃王は親をころせしかば河上に火出でて現身に無間にをちにき、他人をころしたるには・いまだかくの如くの例なし。

不孝をもつて思ふに孝養の功徳のおほきなる事も・しられたり、外典三千余巻は他事なし・ただ父母の孝養ばかりなり、しかれども現世をやしなひて後生をたすけず、父母の恩のおもき事は大海のごとし・現世をやしなひ後生をたすけざれば・一渧のごとし、内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず・孝が中の不孝なるべし、目連尊者の母の餓鬼道の苦をすくひしは・わづかに人天の苦をすくひて・いまだ成仏のみちにはいれず、釈迦如来は御年三十の時・父浄飯王に法を説いて第四果をえせしめ給へり、母の摩耶夫人をば御年三十八の時・阿羅漢果をえせしめ給へり、此等は孝養ににたれども還つて仏に不孝のとがあり、わづかに六道をば・はなれしめたれども父母をば永不成仏の道に入れ給へり、譬へば太子を凡下の者となし王女を匹夫に・あはせたるが如し、されば仏説いて云く「我則ち慳貪に堕せん此の事は為て不可なり」云云、仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人・清酒をおしみて濁酒をのま


せたる不孝第一の人なり、波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち・阿闍世王の如く即身に白癩病をも・つぎぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説き給いて「是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」と、父母の御孝養のため法華経を説き給いしかば、宝浄世界の多宝仏も実の孝養の仏なりと・ほめ給い・十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき。

これをもつて案ずるに日本国の人は皆不孝の仁ぞかし、涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給へり、されば天の日月・八万四千の星・各いかりをなし・眼をいからかして日本国をにらめ給ふ、今の陰陽師の天変・頻りなりと奏し申す是なり、地夭・日日に起りて大海の上に小船をうかべたるが如し、今の日本国の小児は魄をうしなひ・女人は血をはく是なり。

貴辺は日本国・第一の孝養の人なり・梵天・帝釈をり下りて左右の羽となり・四方の地神は足をいただいて父母とあをぎ給うらん、事多しと・いへども・とどめ候い畢んぬ、恐恐謹言。

  弘安三年三月八日                  日蓮花押

   進上 上野殿御返事

上野殿御返事

                    弘安三年七月二日 五十九歳御作

去ぬる六月十五日のけさん悦び入つて候、さては・かうぬし等が事いままでかかへをかせ給いて候事ありがたく・をぼへ候、ただし・ないないは法華経をあだませ給うにては候へども・うへには・たの事によせて事かづけ・にく