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日蓮大聖人・池田大作

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持妙法華問答抄  (2/7) 文証無きは悉く是れ邪の謂い
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断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、此の文の心は若し人・此の経を信ぜずして此の経にそむかば則ち一切世間の仏のたねを・たつものなりその人は命をはらば無間地獄に入るべしと説き給へり、此等の文をうけて天台は将非魔作仏の詞正く此の文によれりと判じ給へり、唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり、之に依つて智証大師は経に大小なく理に偏円なしと云つて一切人によらば仏説無用なりと釈し給へり、天台は「若し深く所以有り復修多羅と合せるをば録して之を用ゆ無文無義は信受す可からず」と判じ給へり、又云く「文証無きは悉く是れ邪の謂い」とも云へり、いかが心得べきや。

問うて云く人師の釈はさも候べし爾前の諸経に此の経第一とも説き諸経の王とも宣べたり若し爾らば仏説なりとも用うべからず候か如何、答えて云く設い此の経第一とも諸経の王とも申し候へ皆是れ権教なり其の語によるべからず、之に依つて仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き妙楽大師は「縦い経有りて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わざれば兼但対帯其の義知んぬ可し」と釈し給へり、此の釈の心は設ひ経ありて諸経の王とは云うとも前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば方便の経としれと云う釈なり、されば爾前の経の習として今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり、唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ、されば釈には「唯法華に至つて前教の意を説いて今教の意を顕す」と申して法華経にて如来の本意も教化の儀式も定りたりと見えたり、之に依つて天台は「如来成道・四十余年未だ真実を顕さず法華始めて真実を顕す」と云へり、此の文の心は如来・世に出でさせ給いて四十余年が間は真実の法をば顕さず法華経に始めて仏になる実の道を顕し給へりと釈し給へり。

問うて云く已今当の中に法華経・勝れたりと云う事はさも候べし、但し有人師の云く四十余年未顕真実と云うは法華経にて仏になる声聞の為なり爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云うべからずと云う義をばいかが心得


候べきや、答えて云く法華経は二乗の為なり菩薩の為にあらず、されば未顕真実と云う事二乗に限る可しと云うは徳一大師の義か此れは法相宗の人なり、此の事を伝教大師破し給うに「現在の麤食者は偽章数巻を作りて、法を謗じ人を謗ず何ぞ地獄に堕せざらんや」と破し給ひしかば徳一は其の語に責められて舌八にさけてうせ給いき、未顕真実とは二乗の為なりと云はば最も理を得たり、其の故は如来布教の元旨は元より二乗の為なり一代の化儀・三周の善巧・併ら二乗を正意とし給へり、されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏になるべからずと嫌い、方等には高峯に蓮の生ざるように二乗は仏の種をいりたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし二乗は叶うべからずと捨てらる、かかる・あさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし法華経の規模とす、之に依つて天台の云く「華厳大品も之を治すること能わず唯法華のみ有りて能く無学をして還つて善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ所以に妙と称す、又闡提は心有り猶作仏す可し二乗は智を滅す心生ず可からず法華能く治す復称して妙と為す」と云云、此の文の心は委く申すに及ばず誠に知んぬ華厳・方等・大品等の法薬も二乗の重病をばいやさず又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども二乗をばゆるさず、之に依つて妙楽大師は「余趣を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し故に菩薩に合して二乗に対し難きに従つて説く」と釈し給えり、しかのみならず二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕すと天台は判じ給へり、修羅が大海を渡らんをば是れ難しとやせん、嬰児の力士を投ん何ぞたやすしとせん、然らば則ち仏性の種あるものは仏になるべしと爾前にも説けども未だ焦種の者作仏すべしとは説かず、かかる重病を・たやすく・いやすは独り法華の良薬なり、只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。

問うて云く一を以て万を察する事なれば・あらあら法華のいわれを聞くに耳目始めて明かなり、但し法華経を


ば・いかように心得候てか速に菩提の岸に到るべきや、伝え聞く一念三千の大虚には慧日くもる事なく一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ其の修行に堪えたる機にて候なれ、然るに南都の修学に臂をくだく事なかりしかば瑜伽唯識にもくらし北嶺の学文に眼を・さらさざりしかば止観玄義にも迷へり、天台・法相の両宗はほとぎを蒙りて壁に向へるが如し、されば法華の機には既にもれて候にこそ何んがし候べき、答えて云く利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云つて無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり是れ還つて愚癡邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり、されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり、いかにも信じて次の生の仏前を期すべきなり、譬えば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに又岸の上に人ありて繩をおろして此の繩にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに引く人の力を疑い繩の弱からん事をあやぶみて手を納めて是をとらざらんが如し争か岸の上に登る事をうべき、若し其の詞に随ひて手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし、唯我一人・能為救護の仏の御力を疑い以信得入の法華経の教への繩をあやぶみて決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず菩提の岸に登る事難かるべし、不信の者は堕在泥梨の根元なり、されば経には「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり、受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ、同じく信を取るならば又大小・権実のある中に諸仏出生の本意・衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ、持つ処の御経の諸経に勝れてましませば能く持つ人も亦諸人にまされり、爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり大聖の金言疑ひなし、然るに人此の理をしらず見ずして名聞・狐疑・偏執を致せるは堕獄の基なり、只願くは経を持ち名を十方の仏陀の願海に流し誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし、然れば法華経を持ち奉る人は天竜・八部・諸大菩薩を以て我が眷属と