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日蓮大聖人・池田大作

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妙法曼陀羅供養事  (1/2) 浄行菩薩うまれかわり給いてや・日蓮を御とふ…
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思議なり不思議なり、此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ、別の故はあるべからず・あるべからず、宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

  文永九年壬申三月十三日               日蓮花押

   阿仏房上人所へ

妙法曼陀羅供養事

                    文永十年 五十二歳御作

                    与 千日尼

妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり。

此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず、病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうべし、仏滅後より今までは二千二百二十余年の間は人の煩悩と罪業の病軽かりしかば・智者と申す医師たち・つづき出でさせ給いて病に随つて薬をあたえ給いき、所謂倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・天台宗・浄土宗・禅宗等なり、彼の宗宗に一一に薬あり、所謂・華厳の六相十玄・三論の八不中道・法相の唯識観・律宗の二百五十戒・浄土宗の弥陀の名号・禅宗の見性成仏・真言宗の五輪観・天台宗の一念三千等なり。

今の世は既に末法にのぞみて諸宗の機にあらざる上、日本国一同に一闡提大謗法の者となる、又物に譬うれば父母を殺す罪・謀叛ををこせる科・出仏身血等の重罪等にも過ぎたり、三千大千世界の一切衆生の人の眼をぬける


罪よりも深く・十方世界の堂塔を焼きはらへるよりも超えたる大罪を・一人して作れる程の衆生・日本国に充満せり、されば天は日日に眼をいからして日本国をにらめ、地神は忿りを作して時時に身をふるうなり、然るに我が朝の一切衆生は皆我が身に科なしと思ひ・必ず往生すべし・成仏をとげんと思へり、赫赫たる日輪をも目無き者は見ず知らず、譬えばたいこの如くなる地震をも・ねぶれる者の心には・おぼえず、日本国の一切衆生も是くの如し女人よりも男子の科はををく・男子よりも尼のとがは重し・尼よりも僧の科はををく・破戒の僧よりも持戒の法師のとがは重し、持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし、此等は癩病の中の白癩病・白癩病の中の大白癩病なり。

末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか治す可きとかんがへ候へば・大日如来の智拳の印並びに大日の真言・阿弥陀如来の四十八願・薬師如来の十二大願・衆病悉除の誓も此の薬には及ぶべからず、つやつや病・消滅せざる上・いよいよ倍増すべし、此等の末法の時のために教主釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏を集めさせ給うて一の仙薬をとどめ給へり・所謂妙法蓮華経の五の文字なり、此の文字をば法慧・功徳林・金剛薩埵・普賢・文殊・薬王・観音等にもあつらへさせ給はず、何に況や迦葉・舎利弗等をや、上行菩薩等と申して四人の大菩薩まします、此の菩薩は釈迦如来・五百塵点劫よりこのかた御弟子とならせ給いて一念も仏を・わすれず・まします大菩薩を召し出して授けさせ給へり、されば此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立そひて・此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ、譬へば・かげと身と水と魚と声とひびきと月と光との如し、此の四大菩薩南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人をはなるるならば・釈迦・多宝・十方分身の諸仏の御勘気を此の菩薩の身に蒙らせ給うべし、提婆よりも罪深く瞿迦利よりも大妄語のものたるべしと・をぼしめすべし、あら悦ばしや・あら悦ばしや、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

                            日蓮花押


阿仏房尼御前御返事

                    建治元年九月三日 五十四歳御作

                    与 千日尼

御文に云く謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なりや云云、夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり、然りといへども信ずる者は成仏をとぐ謗ずる者は無間大城に堕つ、「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり、謗法の者にも浅深・軽重の異あり、法華経を持ち信ずれども誠に色心相応の信者・能持此経の行者はまれなり、此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども深重の罪を受くる事はなし、信心はつよく謗法はよはき故なり、大水を以て小火をけすが如し、涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。

但し謗法に至つて浅深あるべし、偽り愚かにしてせめざる時もあるべし、真言・天台宗等は法華誹謗の者いたう呵責すべし、然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし、然る間まづまづ・さしをく事あるなり立正安国論の如し、いふと・いはざるとの重罪免れ難し、云つて罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置いていましめざる事・眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲なり、章安の云く「慈無くして詐り親むは即ち是れ彼が怨なり」等云云、重罪消滅しがたし弥利益の心尤も然る可きなり、軽罪の者をば・せむる時もあるべし・又せめずしてをくも候べし、自然になをる辺あるべし・せめて自他の罪を脱れて・さてゆるすべし、其の故は一向謗法になれば・まされる大重罪を受くるなり、彼が為に悪を除けば即ち是れ彼が親なりとは是なり。