Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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報恩抄  (2/37) 法に依つて人に依らざれ
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恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等、此等の宗宗みな本経・本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたりと云云、彼の人人云く一切経の中には華厳経第一なり法華経大日経等は臣下のごとし、真言宗の云く一切経の中には大日経第一なり余経は衆星のごとし、禅宗が云く一切経の中には楞伽経第一なり乃至余宗かくのごとし、而も上に挙ぐる諸師は世間の人人・各各おもえり諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随うがごとし我等凡夫はいづれの師師なりとも信ずるならば不足あるべからず仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ、而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり、此の経に又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云云、此の経に指すところ了義経と申すは法華経・不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり、されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。

随つて法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居がごとく輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく衆木の頂に月のやどるがごとく諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。


されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり、又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文・一字・一点もなし、或は小乗経に対して勝劣をとかれ或は俗諦に対して真諦をとき或は諸の空仮に対して中道をほめたり、譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし、法華経は諸王に対して大王等と云云、但涅槃経計りこそ法華経に相似の経文は候へ、されば天台已前の南北の諸師は迷惑して法華経は涅槃経に劣と云云、されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経経をあげて涅槃経に対して我がみ勝ると・とひて又法華経に対する時は是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記莂を授くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云、我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり、かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば末代の学者能く能く眼をとどむべし、此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし、而るを経文にこそ迷うとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人人はしりぬべき事ぞかし、然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし・いわうや余宗の人人をや。

或る人疑つて云く漢土・日本にわたりたる経経にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも月氏・竜宮・四王・日月・忉利天・都率天なんどには恒河沙の経経ましますなれば其中に法華経に勝れさせ給う御経やましますらん、答て云く一をもつて万を察せよ庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり、癡人が疑つて云く我等は南天を見て東西北の三空を見ず彼の三方の空に此の日輪より別の日やましますらん、山を隔て煙の立つを見て火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらんかくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし生盲にことならず、法華経の法師品に釈迦如来金口の誠言をもつて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く「我所説の経典は無量千万億にして已


に説き今説き当に説ん而も其の中に於て此法華経は最も為難信難解なり」等云云、此の経文は但釈迦如来・一仏の説なりとも等覚已下は仰いで信ずべき上多宝仏・東方より来りて真実なりと証明し十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後・各各・国国へ還らせ給いぬ、已今当の三字は五十年並びに十方三世の諸仏えの御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説せ給いて候を十方の諸仏・此座にして御判形を加えさせ給い各各・又自国に還らせ給いて我弟子等に向わせ給いて法華経に勝れたる御経ありと説せ給はば其の所化の弟子等信用すべしや、又我は見ざれば月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に法華経に勝れさせ給いたる経や・おはしますらんと疑いをなすはされば梵釈・日月・四天・竜王は法華経の御座にはなかりけるか、若し日月等の諸天・法華経に勝れたる御経まします汝はしらずと仰せあるならば大誑惑の日月なるべし、日蓮せめて云く日月は虚空に住し給へども我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は上品の不妄語戒の力ぞかし、法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか無間大城の最下の堅鉄にあらずばとどまりがたからんか、大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給うべからずとせめたてまつるべし、而るを華厳宗の澄観等・真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大師等の華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給わば我等が分斉には及ばぬ事なれども大道理のをすところは豈諸仏の大怨敵にあらずや、提婆・瞿伽梨もものならず大天・大慢・外にもとむべからず・かの人人を信ずる輩はをそろし・をそろし。

問て云く華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏・乃至弘法・慈覚・智証等を仏の敵との給うか、答えて云く此大なる難なり仏法に入りて第一の大事なり愚眼をもつて経文を見るには法華経に勝れたる経ありといはん人は設いいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候、而るを経文のごとく申すならば・いかでか此の諸人仏