Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新田殿御書 
1453

謗し甘露を服すと雖も事に即して真なる能わず命を傷つけて早夭するが為の故に戒・定・慧を扶けて大涅槃を顕す、法華の意を得れば涅槃に於て次第の行を用いざるなり」釈籤の四に云く「次の料簡の中・扶戒定慧と言うは事戒・事定・前三教の慧並びに事法を扶くるが為の故なり具には止観の対治助開の中に説くが如し、今時の行者或は一向に理を尚ぶときは則ち己れ聖に均しと謂い及び実を執して権を謗ず、或は一向に事を尚ぶときは則ち功を高位に推り及び実を謗じて権を許す、既に末代に処して聖旨を思わず其れ誰か斯の二の失に堕せざらん、法華の意を得れば則ち初後倶に頓なり、請う心を揣り臆を撫で自ら浮沈を暁れ」と等云云、此の釈に迷惑する者か、此の釈の所詮は或は一向尚理とは達磨宗に等しきなり、及び執実謗権とは華厳宗・真言宗なり、或は一向尚事とは浄土宗・律宗なり、及び謗実許権とは法相宗なり。

夫れ法華経の妙の一字に二義有り一は相待妙・麤を破して妙を顕す二は絶待妙・麤を開して妙を顕す、爾前の諸経並びに法華已後の諸経は破麤顕妙の一分之を説くと雖も・開麤顕妙は全く之無し、爾るに諸経に依憑する人師・彼れ彼れの経経に於て破顕の二妙を存し或は天台の智慧を盗み或は民の家に天下を行うのみ、設い開麤を存すと雖も破の義免れ難きか、何に況や上に挙ぐる所の一向執権・或は一向執実等の者をや、而るに彼の阿闍梨等は・自科を顧みざる者にして嫉妬するの間自眼を回転して大山を眩ると観るか、先ず実を以て権を破し権執を絶して実に入るは釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀なり、実を以て権を破する者を盲目と為せば釈尊は盲目の人か乃至天台伝教は・盲目の人師なるか如何、笑う可し返す返す。

四十九院等の事、彼の別当等は無智の者たる間日蓮に向つて之を恐る小田一房等怨を為すか弥彼等が邪法滅す可き先兆なり、根露るれば枝枯れ源竭れば流れ尽くと云う本文虚しからざるか、弘法・慈覚・智証・三大師の法華経誹謗の大科四百余年の間隠せる根露れ枝枯る、今日蓮之を糾明せり拘留外道が石と為つて数百年、陳那菩薩


に責められ石即ち水と為る、尼犍が立てし塔は馬鳴之を頽す、臥せる師子に手を触れば瞋りを為す等是なり。

  建治四年正月十六日                 日蓮花押

   駿河国実相寺豊前公御房御返事

石本日仲聖人御返事

同時に二仏に亘るか将た又一方は妄語なるか、近来念仏者天下を誑惑するか、早早御存知有る可きか。

抑駿馬一疋追い遣わさる事存外の次第か事事見参の時を期す、恐恐謹言。

  九月二十日                     日蓮在御判

    石本日仲聖人御返事

  此の間の学問只此事なり、又真言師等、奏問を経るの由風聞せしむ。


聖人等御返事

今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す、彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等・五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。

伯耆房等深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し、平金吾に申す可き様は文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ、恐恐。

  十月十七日戌時                   日蓮在御判

   聖人等御返事

 この事のぶるならば此方にはとがなしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにおづべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり、今度の使にはあわぢ房を遣すべし。