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日蓮大聖人・池田大作

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下山御消息  (17/22) 法華経を法の如く修行すとも法華経の行者を恥…
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法の如く修行すとも法華経の行者を恥辱せん者と此れ等の諸人を指しつめて其人命終入阿鼻獄と定めさせ給いしなり、此の事はただ釈迦一仏の仰なりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども已今当の諸経の説に色をかへて重き事をあらはさんがために宝浄世界の多宝如来は自はるばる来給いて証人とならせ給う、釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらむ人人は入阿鼻獄は一定なりと証明し、又阿弥陀仏等の十方の諸仏は各各の国国を捨てて霊山・虚空会に詣で給い宝樹下に坐して広長舌を出し大梵天に付け給うこと無量無辺の虹の虚空に立ちたらんが如し、心は四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に法蔵比丘の諸菩薩・四十八願等を発して凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説く事は且く法華経已前のやすめ言なり、実には彼れ彼れの経経の文の如く十方西方への来迎はあるべからず実とおもふことなかれ釈迦仏の今説き給うが如し実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり、我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり釈迦仏は天月の如し我等は水中の影の月なり釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり天月動き給はずば我等もうつるべからず此の土に居住して法華経の行者を守護せん事臣下が主上を仰ぎ奉らんが如く父母の一子を愛するが如くならんと出し給う舌なり、其の時阿弥陀仏の一二の弟子・観音・勢至等は阿弥陀仏の塩梅なり雙翼なり左右の臣なり両目の如し、然而極楽世界よりはるばると御供し奉りたりしが無量義経の時・仏の阿弥陀経等の四十八願等は未顕真実乃至法華経にて一名阿弥陀と名をあげて此等の法門は真実ならずと説き給いしかば実とも覚へざりしに阿弥陀仏正く来りて合点し給いしをうち見てさては我等が念仏者等を九品の浄土へ来迎の蓮台と合掌の印とは虚しかりけりと聞定めてさては我等も本土に還りて何かせんとて八万二万の菩薩のうちに入り或は観音品に遊於娑婆世界と申して此の土の法華経の行者を守護せんとねんごろに申せしかば、日本国より近き一閻浮提の内・南方・補陀落山と申す小所を釈迦仏より給いて宿所と定め給ふ、阿弥陀仏は左右の臣下


たる観音勢至に捨てられて西方世界へは還り給はず此の世界に留りて法華経の行者を守護せんとありしかば此の世界の内・欲界第四の兜率天・弥勒菩薩の所領の内・四十九院の一院を給いて阿弥陀院と額を打つておはするとこそうけ給はれ、其の上・阿弥陀経には仏・舎利弗に対して凡夫の往生すべき様を説き給ふ、舎利弗・舎利弗・又舎利弗・と二十余処までいくばくもなき経によび給いしはかまびすしかりし事ぞかし、然れども四紙の一巻が内すべて舎利弗等の諸声聞の往生成仏を許さず法華経に来りてこそ始て華光如来・光明如来とは記せられ給いしか一閻浮提第一の大智者たる舎利弗すら浄土の三部経にて往生成仏の跡をけづる、まして末代の牛羊の如くなる男女・彼彼の経経にて生死を離れなんや、此の由を弁へざる末代の学者等・並に法華経を修行する初心の人人かたじけなく阿弥陀経を読み念仏を申して或は法華経に鼻を並べ、或は後に此れを読みて法華経の肝心とし功徳を阿弥陀経等にあつらへて西方へ回向し往生せんと思ふは譬へば飛竜が驢馬を乗物とし師子が野干をたのみたるか将又日輪出現の後の衆星の光・大雨の盛時の小露なり、故に教大師云く「白牛を賜う朝には三車を用いず、家業を得る夕に何ぞ除糞を須いん」、故に経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」又云く「日出でぬれば星隠れ巧を見て拙を知る」と云云、法華経出現の後は已今当の諸経の捨てらるる事は勿論なりたとひ修行すとも法華経の所従にてこそあるべきに今の日本国の人人・道綽が未有一人得者・善導が千中無一・慧心が往生要集の序・永観が十因・法然が捨閉閣抛等を堅く信じて或は法華経を抛ちて一向に念仏を申す者もあり、或は念仏を本として助けに法華経を持つ者もあり或は弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて左右に念じて二行と行ずる者もあり或は念仏と法華経と一法の二名なりと思いて行ずる者もあり、此れ等は皆教主釈尊の御屋敷の内に居して師主をば指し置き奉りて阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に国毎に郷毎に家家毎に並べ立て或は一万・二万或は七万返或は一生の間一向に修行して主師親をわすれたるだに不思議なるに、剰へ親父たる教主釈尊の御誕生・御入滅の両日を奪い取りて、十五日は


阿弥陀仏の日・八日は薬師仏の日等云云、一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり是豈に不孝の者にあらずや逆路七逆の者にあらずや、人毎に此の重科有りてしかも人毎に我が身は科なしとおもへり無慚無愧の一闡提人なり、法華経の第二の巻に主と親と師との三大事を説き給へり一経の肝心ぞかし、其の経文に云く「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」等云云、又此の経に背く者を文に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、されば念仏者が本師の導公は其中衆生の外か唯我一人の経文を破りて千中無一といいし故に現身に狂人と成りて楊柳に登りて身を投げ堅土に落ちて死にかねて十四日より二十七日まで十四日が間・顛倒狂死し畢んぬ、又真言宗の元祖・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねたる教主釈尊・法王を立下て大日他仏をあがめし故に善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず又無間地獄に堕ちぬ、汝等此の事疑あらば眼前に閻魔堂の画を見よ、金剛智・不空の事はしげければかかず、又禅宗の三階信行禅師は法華経等の一代聖教をば別教と下だす我が作れる経をば普経と崇重せし故に四依の大士の如くなりしかども法華経の持者の優婆夷にせめられてこえを失ひ現身に大蛇となり数十人の弟子を呑み食う。

今日本国の人人はたとひ法華経を持ち釈尊を釈尊と崇重し奉るとも真言宗・禅宗・念仏者をあがむるならば無間地獄はまぬがれがたし、何に況や三宗の者共を日月の如く渇仰し我が身にも念仏を事とせむ者をや心あらん人人は念仏・阿弥陀経等をば父母・師・君・宿世の敵よりもいむべきものなり、例せば逆臣が旗をば官兵は指す事なし寒食の祭には火をいむぞかし、されば古への論師・天親菩薩は小乗経を舌の上に置かじと誓ひ、賢者たりし吉蔵大師は法華経をだに読み給はず、此等はもと小乗経を以て大乗経を破失し法華経を以て天台大師を毀謗し奉りし謗法の重罪を消滅せんがためなり、今日本国の人人は一人もなく不軽軽毀の如く苦岸・勝意等の如く一国万人・皆無