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日蓮大聖人・池田大作

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曾谷二郎入道殿御返事  (5/5) 爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も…
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同生同名も国中の人を離れ天照太神・八幡大菩薩も争か此の国を守護せん。

去る治承等の八十一・二・三・四・五代の五人の大王と頼朝・義時と此の国を御諍い有つて天子と民との合戦なり、猶鷹駿と金鳥との勝負の如くなれば天子・頼朝等に勝たんこと必定なり決定なり、然りと雖も五人の大王は負け畢んぬ兎・師子王に勝ちしなり、負くるのみに非ず剰え或は蒼海に沈み或は島島に放たれ、誹謗法華未だ年歳を積まざる時・猶以て是くの如し、今度は彼に似る可らず彼は但国中の災い許りなり、其の故は粗之を見るに蒙古の牒状已前に去る正嘉・文永等の大地震・大彗星の告げに依つて再三之を奏すと雖も国主敢て信用無し、然るに日蓮が勘文粗仏意に叶うかの故に此の合戦既に興盛なり、此の国の人人・今生には一同に修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり。

爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し、何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん、恐恐謹言。

  弘安四年閏七月一日                 日蓮花押

   曾谷二郎入道殿御返事


秋元殿御返事

                    文永八年正月 五十歳御作

                    於安房保田

御文委く承り候い畢んぬ、御文に云く末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に定まり候、殊に五節供はいかなる由来・何なる所表・何を以て正意として・まつり候べく候や云云、夫れ此の事は日蓮委く知る事なし、然りと雖も粗意得て候、根本大師の御相承ありげに候、総じて真言天台両宗の習なり、委くは曾谷殿へ申候次での御時は御談合あるべきか、先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし、法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり、経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」云云、又云く「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり、法とは法華経なり、童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり、「臨兵闘者皆陳列在前」是又「刀杖不加」の四字なり、此等は随分の相伝なり能く能く案じ給うべし、第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云、五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ、委細は又又申す可く候。

次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を


得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。

  正月十一日                     日蓮花押

   秋元殿御返事              安房の国ほたより出す

秋元御書

                    弘安三年一月 五十九歳御作

                    於身延

筒御器一具付三十並に盞付六十送り給び候い畢んぬ、御器と申すは・うつはものと読み候、大地くぼければ水たまる青天浄ければ月澄めり、月出でぬれば水浄し雨降れば草木昌へたり、器は大地のくぼきが如し水たまるは池に水の入るが如し、月の影を浮ぶるは法華経の我等が身に入らせ給うが如し、器に四の失あり・一には覆と申してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏と申して水もるなり、三には汙と申して・けがれたるなり水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑なり・飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑へぬれば人食ふ事なし、器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり、法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば・或は打ち返し・或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ、譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり是は水の漏が如し、或は法華経を行ずる人の一口は