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日蓮大聖人・池田大作

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立正安国論  (5/16) 悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや
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し法師は諂曲にして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王別えずして此の語を信聴し横に法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上

涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上

法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤する者有らん、利養に貪著するが故に白衣の与めに法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん、乃至常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙し数数・擯出せられん」已上

涅槃経に云く「我れ涅槃の後・無量百歳・四道の聖人悉く復た涅槃せん、正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし、持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如し、実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上

文に就て世を見るに誠に以て然なり悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや

客猶憤りて曰く、明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む、世上の僧侶は天下の帰する所なり、悪侶に於ては明王信ず可からず聖人に非ずんば賢哲仰ぐ可からず、今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽


からざるを知んぬ、何ぞ妄言を吐いて強ちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘と謂うや委細に聞かんと欲す。

主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り選択集を作る則ち一代の聖教を破し徧く十方の衆生を迷わす、其の選択に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文、初に聖道門とは之に就いて二有り乃至之に準じ之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし、然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論・此等の八家の意正しく此に在るなり、曇鸞法師往生論の注に云く謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云く菩薩・阿毘跋致を求むるに二種の道有り一には難行道二には易行道なり、此の中難行道とは即ち是れ聖道門なり易行道とは即ち是れ浄土門なり、浄土宗の学者先ず須らく此の旨を知るべし設い先より聖道門を学ぶ人なりと雖も若し浄土門に於て其の志有らん者は須らく聖道を棄てて浄土に帰すべし又云く善導和尚・正雑の二行を立て雑行を捨てて正行に帰するの文、第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土の経を除いて已外・大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く、第三に礼拝雑行とは上の弥陀を礼拝するを除いて已外一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名く、私に云く此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし豈百即百生の専修正行を捨てて堅く千中無一の雑修雑行を執せんや行者能く之を思量せよ、又云く貞元入蔵録の中に始め大般若経六百巻より法常住経に終るまで顕密の大乗経総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし、当に知るべし随他の前には暫く定散の門を開くと雖も随自の後には還て定散の門を閉ず、一たび開いて以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なりと、又云く念仏の行者必ず三心を具足す可きの文、観無量寿経に云く同経の疏に云く問うて曰く若し解行の不同・邪雑の人等有つて外邪異見の難を防がん或は行くこと一分二分にして群賊等喚廻すとは即ち別解・別行・悪見の人等に喩う、私に云く又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と


言うは是れ聖道門を指す已上、又最後結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲せば正雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべし」已上

之に就いて之を見るに曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者なり、是に於て代末代に及び人・聖人に非ず各冥衢に容つて並びに直道を忘る悲いかな瞳矇を樹たず痛いかな徒に邪信を催す、故に上国王より下土民に至るまで皆経は浄土三部の外の経無く仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂えり。

仍つて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波濤を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当に施し虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、故に国王は郡郷を寄せて以て灯燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う。

而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心