Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

波木井三郎殿御返事  (5/5) 提婆達多は閻浮第一の一闡提の人
1373

る妙因を植えたるに非ざるよりは実に遇い難しと為す」等云云、法華経に云く「過去に十万億の仏を供養せん人・人間に生れて此の法華を信ぜん」又涅槃経に云く「熈連一恒供養の人此の悪世に生れて此の経を信ぜん」等云云取意、阿闍世王は父を殺害し母を禁固せし悪人なり、然りと雖も涅槃経の座に来つて法華経を聴聞せしかば現世の悪瘡を治するのみに非ず四十年の寿命を延引したまい結句は無根初住の仏記を得たり、提婆達多は閻浮第一の一闡提の人・一代聖教に捨て置かれしかども此の経に値い奉りて天王如来の記莂を授与せらる彼を以て之を推するに末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ、而るに貴辺は武士の家の仁昼夜殺生の悪人なり、家を捨てずして此所に至つて何なる術を以てか三悪道を脱る可きか、能く能く思案有る可きか、法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり、天台の云く「他経は但善に記して悪に記せず今経は皆記す」等云云、妙楽の云く「唯円教の意は逆即是順なり自余の三教は逆順定まるが故に」等云云、爾前分分の得道有無の事之を記す可しと雖も名目を知る人に之を申すなり、然りと雖も大体之を教る弟子之れ有り此の輩等を召して粗之を聞くべし、其の時之を記し申す可し、恐恐謹言。

  文永十年太歳癸酉八月三日            日蓮花押

   甲斐国南部六郎三郎殿御返事


南部六郎殿御書

眠れる師子に手を付けざれば瞋らず流にさをを立てざれば浪立たず謗法を呵嘖せざれば留難なし、若善比丘見壊法者置不呵嘖の置の字ををそれずんば今は吉し後を御らんぜよ無間地獄疑無し、故に南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云、十輪経に云く「若し誹謗の者ならば共住すべからず亦親近せざれ、若し親近し共住せば即ち阿鼻地獄に趣かん」云云、栴檀の林に入りぬればたをらざるに其身に薫ず誹謗の者に親近すれば所修の善根悉く滅して倶に地獄に堕落せん、故に弘決の四に云く「若し人本悪無けれども悪人に親近すれば後に必ず悪人と成りて悪名天下に遍し」凡そ謗法に内外あり国家の二是なり、外とは日本六十六ケ国の謗法是なり、内とは王城九重の謗是なり、此の内外を禁制せずんば宗廟社禝の神に捨てられて必ず国家亡ぶべし、如何と云うに宗廟とは国王の神を崇む社とは地の神なり禝とは五穀の総名五穀の神なり、此の両の神・法味に飢えて国を捨て給う故に国土既に日日衰減せり、故に弘決に云く「地広くして尽く敬す可からず封じて社と為す禝とは謂く五穀の総名にして即五穀の神なり」故に天子の居する所には宗廟を左にし社禝を右にし四時・五行を布き列ぬ故に国の亡ぶるを以て社禝を失うと為す、故に山家大師は「国に謗法の声有るによつて万民数を減じ家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」と、故に分分の内外有るべし。

  五月十六日                     日蓮在御判

   南部六郎殿


地引御書

                    弘安四年十一月 六十歳御作

                    与 南部六郎

坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ・二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつりて・二十四日の戌亥の時御所にすゑして・三十余人をもつて一日経かきまいらせ・並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし、坊は地ひき山づくりし候いしに山に二十四日・一日もかた時も雨ふる事なし、十一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる・八日は大坊のはしらだて九日十日ふき候い了んぬ、しかるに七日は大雨・八日九日十日はくもりて・しかもあたたかなる事・春の終りのごとし、十一日より十四日までは大雨ふり大雪下りて今に里にきへず、山は一丈二丈雪こほりてかたき事かねのごとし、二十三日四日は又そらはれてさむからず人のまいる事洛中かまくらのまちの申酉の時のごとし、さだめて子細あるべきか。

次郎殿等の御きうだちをやのをほせと申し我が心にいれてをはします事なれば・われと地をひきはしらをたて、とうひやうえむまの入道・三郎兵衛尉等已下の人人一人もそらくのぎなし、坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ。

ただし一日経は供養しさして候、其の故は御所念の叶わせ給いて候ならば供養しはて候はん、なにと申して候とも御きねんかなはずば言のみ有りて実なく華さいてこのみなからんか、いまも御らんぜよ此の事叶はずば今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候はん、叶いて候はば二人よりあひまいらせて供養しはてまいらせ候はん、神ならはすはねぎからと申す、此の事叶はずば法華経・信じてなにかせん、事事又又申すべく候恐恐。

  十一月廿五日                    日蓮花押

   南部六郎殿