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日蓮大聖人・池田大作

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問注得意抄 
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問注得意抄

              文永六年五月 四十八歳御作

              与 富木入道外二人

     土木入道殿                  日蓮

今日召し合せ御問注の由承り候、各各御所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身か、西王母の薗の桃・九千年に三度之を得たる東方朔が心か一期の幸何事か之に如かん、御成敗の甲乙は且らく之を置く前立つて欝念を開発せんか、但し兼日御存知有りと雖も駿馬にも鞭うつの理之有り、今日の御出仕・公庭に望んでの後は設い知音為りと雖も傍輩に向つて雑言を止めらる可し両方召し合せの時・御奉行人・訴陳の状之を読むの尅何事に付けても御奉行人の御尋ね無からんの外一言を出す可からざるか、設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の事・一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時・顔貌を変ぜず麤言を出さず輭語を以て申す可し各各は一処の同輩なり私に於ては全く遺恨無きの由之を申さる可きか、又御供雑人等に能く能く禁止を加え喧嘩を出す可からざるか、是くの如き事書札に尽し難し心を以て御斟酌有る可きか、此等の矯言を出す事恐を存すと雖も仏経と行者と檀那と三事相応して一事を成さんが為に愚言を出す処なり、恐恐謹言。

  五月九日                      日蓮花押

   三人御中


行敏御返事

             文永八年七月 五十歳御作

             与 浄土僧行敏

   行敏初度の難状

未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を痛ませられざらんや、是非に付き委く示し賜わる可きなり、恐恐謹言。

  七月八日                      僧行敏花押

   日蓮阿闍梨御房

   聖人御返事

条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言。

   七月十三日                     日蓮花押

   行敏御房御返事


行敏訴状御会通

          文永八年 五十歳御作

当世日本第一の持戒の僧・良観聖人並びに法然上人の孫弟子念阿弥陀仏・道阿弥陀仏等の諸聖人等日蓮を訴訟する状に云く早く日蓮を召し決せられて邪見を摧破し正義を興隆せんと欲する事云云、日蓮云く邪見を摧破し正義を興隆せば一眼の亀の浮木の穴に入るならん、幸甚幸甚。

彼の状に云く右八万四千の教乃至一を是として諸を非とする理豈に然る可けんや云云、道綽禅師云く当今末法は是れ五濁悪世なり唯浄土の一門のみ有つて路に通入す可し云云、善導和尚云く千中無一云云、法然上人云く捨閉閣抛云云、念阿上人等の云く一を是とし諸を非とす謗法なり云云、本師三人の聖人の御義に相違す豈に逆路伽耶陀の者に非ずや、将又忍性良観聖人彼等の立義に与力して此を正義と存せらるるか、又云く而るに日蓮偏えに法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す云云、無量義経に云く四十余年未顕真実・法華経に云く要当説真実と・又云く宣示顕説と・多宝仏証明を加えて云く皆是真実と・十方の諸仏は舌相至梵天と云う云云、已今当の三説を非毀して法華経一部を讃歎するは釈尊の金言なり諸仏の傍例なり敢て日蓮が自義に非ず、其の上此の難は去る延暦・大同・弘仁の比・南都の徳一大師が伝教大師を難破せし言なり、其の難已に破れて法華宗を建立し畢んぬ。

又云く所謂法華前説の諸経は皆是れ妄語なりと云云此又日蓮が私の言に非ず、無量義経に云く未だ真実を顕さず未顕真実とは妄語の異名なり法華経第二に云く寧ろ虚妄有りや不なり云云、第六に云く此の良医虚妄の罪を説くや不や云云、涅槃経に云く如来虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知れば云云、天台云く則ち為如来綺語の語云云、四十余年の経経を妄語と称すること又日蓮が私の言に非ず、又云く念仏は無間の業と云云法華経第一に云