Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

守護国家論  (15/42) 一人の持者を罵る罪すら尚是くの如し況や書を…
50

行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為し次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時・一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給えり、当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり。

而るに源空並に所化の衆此の義を知らざるが故に法華真言を以て三師並に源信所破の難聖雑並に往生要集の序の顕密の中に入れて三師並に源信を法華真言の謗法の人と為す、其の上日本国の一切の道俗を化して法華真言に於て時機不相応の旨を習わしめ在家出家の諸人に於て法華真言の結縁を留む豈仏の記し給う所の「悪世中比丘邪智心諂曲」の人に非ずや、亦則ち一切世間の仏種を断ずの失を免る可けんや。

其の上・山門・寺門・東寺・天台並に日本国中に法華真言を習う諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬うる源空が重罪何れの劫にか其の苦果を経尽す可きや、法華経の法師品に持経者を罵る罪を説いて云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し若し人・一つの悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀訾せん其の罪甚だ重し」已上経文一人の持者を罵る罪すら尚是くの如し況や書を造り日本国の諸人に罵らしむる罪をや、何に況や此の経を千中無一と定めて法華経を行ずる人に疑を生ぜしむる罪をや、何に況や此の経を捨てて観経等の権経に遷らしむる謗法の罪をや、願わくば一切の源空が所化の四衆頓に選択集の邪法を捨てて忽に法華経に遷り今度阿鼻の炎を脱れよ。

問うて云く正しく源空が法華経を誹謗する証文如何、答えて云く法華経の第二に云く「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば則一切世間の仏種を断ぜん」経文不信の相貌は人をして法華経を捨てしむればなり、故に天親菩薩の仏性論の第一に此の文を釈して云く「若し大乗に憎背する者此は是れ一闡提の因なり衆生をして此の法を捨てし


むるを為の故に」論文謗法の相貌は此の法を捨てしむるが故なり、選択集は人をして法華経を捨てしむる書に非ずや閣抛の二字は仏性論の憎背の二字に非ずや、亦法華経誹謗の相貌は四十余年の諸経の如く小善成仏を以て別時意趣と定むる等なり。

故に天台の釈に云く「若し小善成仏を信ぜずんば則世間の仏種を断ずるなり」妙楽重ねて此の義を宣べて云く「此の経は遍く六道の仏種を開す若し此の経を謗ぜば義・断に当るなり」釈迦多宝十方の諸仏・天親・天台・妙楽の意の如くんば源空は謗法の者なり所詮選択集の意は人をして法華真言を捨てしめんと定めて書き了んぬ謗法の義疑い無き者なり。

大文の第三に選択集謗法の縁起を出さば、問うて云く何れの証拠を以て源空を謗法の者と称するや、答えて云く選択集の現文を見るに一代聖教を以て二つに分つ一には聖道・難行・雑行・二には浄土・易行・正行なり、其の中に聖・難・雑と云うは華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日経等なり取意浄・易・正とは浄土の三部経の称名念仏等なり取意聖・難・雑の失を判ずるには末代の凡夫之を行ぜば百の時に希に一二を得・千の時に希に三五を得ん或は千が中に一も無し或は群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人等と定むるなり、浄・易・正の得を判ずるには末代の凡夫之を行ぜば十は即十生し百は即百生せん等なり謗法の邪義是なり。

問うて云く一代聖教を聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行と分ち其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること源空一人の新義に非ず曇鸞・道綽・善導の三師の義なり、此亦此等の人師の私の案に非ず其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり、若し源空を謗法の者と称せば竜樹菩薩並に三師を謗法の者と称するに非ずや、答えて云く竜樹菩薩並に三師の意は法華已前の四十余年の経経に於て難易等の義を存す、而るに源空より已来竜樹並に三師の難行等の語を借りて法華真言等を以て難・雑等の内に入れぬ、所化の弟子・師の失を知らずして此の邪義を


以て正義と存じ此の国に流布せしむるが故に国中の万民悉く法華・真言に於て時機不相応の想を作す、其の上世間を貪る天台真言の学者世の情に随わんが為に法華真言に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依つて釈迦多宝並に十方諸仏の御評定の「令法久住・於閻浮提広宣流布」の誠言を壊り一切衆生をして三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ、偏に是れ悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い、乃至・悪鬼其の身に入り仏の方便随宜所説の法を知らざる故なり。

問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く「初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな。

爰に源空の門弟・師の邪義を救つて云く諸宗の常の習い設い経論の証文無しと雖も義類の同じきを聚めて一処に置く而も選択集の意は法華真言等を集めて雑行の内に入れ正行に対して之を捨つ偏に経の法体を嫌うに非ず但風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め此の機に易行の法を撰ぶ時・称名の念仏を以て其の機に当て易行の法を