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日蓮大聖人・池田大作

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新池殿御消息  (3/4) まがれる木はすなをなる繩をにくみいつはれる…
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ら経文に任せてかたり申せば・日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・某一人を不思議なる者に思いて余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり或はうち或は処を追ひ或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、貧なる者は富めるをへつらひ賤き者は貴きを仰ぎ無勢は多勢にしたがう事なれば、適法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり、但し日蓮が愚眼にてや・あるらん又宿習にてや候らん法華経最第一・已今当説難信難解・唯我一人能為救護と説かれて候文は如来の金言なり敢て私の言にはあらず、当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ・或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ・或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり、しかるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり、譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す・親の心に子の随うをば随自意と申す、諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる、譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆に白き物を入るれば白くなるが如し毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す、然るに今の人人は高きも賤きも現在の父たる釈迦仏をばかろしめて他人の縁なき阿弥陀・大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失にあらずや・是れ謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人・一同に怨ませ給うなり、其れもことはりなり・まがれる木はすなをなる繩をにくみいつはれる者はただしき政りごとをば心にあはず思うなり

我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり、所謂大山の王子・大石の小丸・乃至将門すみとも悪左府等なり、此等の人人は吉野とつ河の山林にこもり筑紫・鎮西の海中に隠るれば・島島のえびす浦浦のもののふどもうたんとす、然れどもそれは貴き聖人・山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし、日蓮をば上


下の男女・尼・法師貴き聖人なんど云はるる人人は殊に敵となり候、其の故はいづれも後世をば願へども男女よりは僧・尼こそ願ふ由はみえ候へ、彼等は往生はさてをきぬ今生の世をわたるなかだちとなる故なり、智者聖人又我好我勝たりと申し・本師の跡と申し・所領と申し・名聞利養を重くして・まめやかに道心は軽し、仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり、謗法の人なりと言をも惜まず人をも憚らず、当知是人仏法中怨の金言を恐れて我是世尊使処衆無所畏と云う文に任せていたくせむる間・未得謂為得・我慢心充満の人人争かにくみ嫉まざらんや。

されば日蓮程天神七代・地神五代・人王九十余代にいまだ此れ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり、かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に・此れまで御渡り候いし事・おぼろげの縁にはあらず宿世の父母か昔の兄弟にておはしける故に思い付かせ給うか、又過去に法華経の縁深くして今度仏にならせ給うべきたねの熟せるかの故に・在俗の身として世間ひまなき人の公事のひまに思い出ださせ給いけるやらん。

其の上遠江の国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり、宿宿のいぶせさ・嶺に昇れば日月をいただき・谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ、河の水は矢を射るが如く早し・大石ながれて人馬むかひ難し、船あやうくして紙を水にひたせるが如し、男は山かつ女は山母の如し、道は繩の如くほそく・木は草の如くしげし、かかる所へ尋ね入らせ給いて候事・何なる宿習なるらん、釈迦仏は御手を引き帝釈は馬となり梵王は身に随ひ日月は眼となりかはらせ給いて入らせ給いけるにや、ありがたしありがたし、事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく候間留め候い畢んぬ。

  弘安二年己卯五月二日                日蓮花押

   新池殿御返事


新池御書

                    弘安三年二月 五十九歳御作

うれしきかな末法流布に生れあへる我等・かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人、抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや、倩世間の体を観ずれば人皆口には此の経を信じ手には経巻をにぎるといへども・経の心にそむく間・悪道を免れ難し、譬えば人に皆五臓あり一臓も損ずれば其の臓より病出て来て余の臓を破り終に命を失うが如し、爰を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還つて釈尊・十方の諸仏を殺すに成りぬと申す意なり、終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば・諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし、然れども此の経の十四謗法の中に一も二もをかしぬれば其の罪消えがたし、所以は何ん一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも争か一仏を殺す罪に及ばんや、法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、修羅は闘諍なり・畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒に・つめられてこごむ間せなかわれて・肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、況や大紅蓮をや、かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争か名聞名利・我慢偏執有るべきや。

思食すべし法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば悪道に行くべからず、何に況や十度・二十度乃至五年・十年・一期生の間・供養せる功徳をば仏の智慧にても知りがたし、此の経の行者を一度供養する功徳は