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日蓮大聖人・池田大作

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富木殿女房尼御前御書 
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富木殿女房尼御前御書

                    弘安二年十一月 五十八歳御作

いよ房は学生になりて候ぞつねに法門きかせ給へ。

はるかに見まいらせ候はねば・をぼつかなく候、たうじとても・たのしき事は候はねども・むかしは・ことにわびしく候いし時より・やしなはれまいらせて候へば・ことにをんをもくをもいまいらせ候、それについては・いのちはつるかめのごとく・さいはいは月のまさり・しをのみつがごとくとこそ法華経にはいのりまいらせ候へ、さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ。

  十一月二十五日                   日蓮花押

   富城殿女房尼御前


諸経と法華経と難易の事

                    弘安三年五月 五十九歳御作

問うて云く法華経の第四法師品に云く難信難解と云云いかなる事ぞや、答えて云く此の経は仏説き給いて後二千余年にまかりなり候、月氏に一千二百余年・漢土に二百余年を経て後に日本国に渡りて・すでに七百余年なり、仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり、所謂月氏には竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此れは竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給いしなり、漢土には天台智者大師と申せし人読んで云く「已今当説最も為れ難信難解」と云云、日本国には伝教大師読んで云く「已説の四時の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり随他意の故に此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」等云云、問うて云く其の意如何、答て云く易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり云云、弘法大師並びに日本国東寺の門人をもわく法華経は顕教の内の難信難解にて密教に相対すれば易信易解なり云云、慈覚智証並びに門家思うよう法華経と大日経は倶に難信難解なり但し大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解・大日経は最も為れ難信難解なり云云、此の二義は日本一同なり、日蓮読んで云く外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり・般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。

問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか随他意とは真言宗・華厳宗等は随他意の易信易解なり仏九界の衆生の意楽に随つて説く所の経経を随他意という譬えば賢父が愚子に随うが如し、仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という、譬へば聖父が愚子


を随えたるが如きなり、日蓮此の義に付て大日経・華厳経・涅槃経等を勘え見候に皆随他意の経経なり、問うて云く其の随他意の証拠如何、答えて云く勝鬘経に云く「非法を聞くこと無き衆生には人天の善根を以て之を成熟す声聞を求むる者には声聞乗を授け縁覚を求むる者には縁覚乗を授け大乗を求むる者には授くるに大乗を以てす」と云云、易信易解の心是なり、華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し「爾の時に世尊・薬王菩薩に因せて八万の大士に告げたまわく薬王汝是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・仏道を求むる者を見るや、是くの如き等類咸く仏前に於て妙法華経の一偈一句を聞いて一念も随喜する者には我皆記を与え授く当に阿○菩提を得べし」文、諸経の如くんば人は五戒・天は十善・梵は慈悲喜捨・魔王には一無遮・比丘の二百五十・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・縁覚の十二因縁・菩薩の六度・譬へば水の器の方円に随い象の敵に随つて力を出すがごとし、法華経は爾らず八部・四衆皆一同に法華経を演説す、譬へば定木の曲りを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。

此の明鏡を以て一切経を見聞するに大日の三部・浄土の三部等隠れ無し、而るを・いかにやしけん弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に此の義すでに隠没して日本国四百余年なり、珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれり、仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり、幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり、委細に旨又又申す可く候、恐恐。

  五月廿六日                     日蓮花押

   富木殿御返事