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日蓮大聖人・池田大作

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法華初心成仏抄  (13/14) 猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠し…
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つ人人をば世こぞつて悪み嫉み軽しめ賤み或は所を追ひ出し、或は流罪し供養をなすまでは思いもよらず怨敵の様ににくまるるは、いかさまにも心わろくして仏意にもかなはず・ひがさまに法を心得たるなるべし、経文には如何が説きたるや、答えて云く経文の如くならば末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり、人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男・俗女の檀那をへつらい・いつわり・たぼらかすべしと説き給へり、其の上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男・俗女なり此の俗男・俗女は法華経の行者を憎み罵り打ちはり・きり殺し所を追ひ出だし或は上へ讒奏して遠流し・なさけなくあだむ者なり、二には出家の人なり此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ、賤み犬野干よりも・わろきようを人に云いうとめ法華経をば我一人心得たりと思う者なり、三には阿練若の僧なり此の僧は極めて貴き相を形に顕し三衣・一鉢を帯して山林の閑かなる所に籠り居て在世の羅漢の如く諸人に貴まれ仏の如く万人に仰がれて法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云く大愚癡の者・大邪見の者なり総て慈悲なき者・外道の法を説くなんど云わん、上一人より仰いで信を取らせ給はば其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし、法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。

問うて云く仏の名号を持つ様に法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや如何、答えて云く経に云く「仏諸の羅刹女に告げたまわく善き哉善き哉汝等但能く法華の名を受持する者を擁護せん福量る可からず」と云云此の文の意は十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを大覚世尊讃めて言く善き哉善き哉汝等南


無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり神妙なりと仰せられたる文なり、是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云う文なり。

凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり、されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。

                          日蓮在御判


三世諸仏総勘文教相廃立

                 弘安二年十月 五十八歳御作

                           日蓮之を撰す

夫れ一代聖教とは総べて五十年の説教なり是を一切経とは言うなり、此れを分ちて二と為す・一には化他・二には自行なり、一には化他の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり此れをば権教と云い亦は方便と名く、此れは四教の中には三蔵教・通教・別教の三教なり・五時の中には華厳・阿含・方等・般若なり法華より前の四時の経教なり、又十界の中には前の九法界なり又夢と寤との中には夢中の善悪なり又夢をば権と云い寤をば実と云うなり、是の故に夢は仮に有つて体性無し故に名けて権と云うなり、寤は常住にして不変の心の体なるが故に此れを名けて実と為す、故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり故に権教と言う、斯れに由つて文字の読みを糾して心得可きなり、故に権をば権と読む権なる事の手本には夢を以て本と為す又実をば実と読む実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり故に妄想と云う、本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり故に実相と云う、是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知る可きなり、故に四教の中には前の三教と五時の中には前の四時と十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり故に権教と云う、此の教相をば無量義経に四十余年未顕真実と説き給う已上、未顕真実の諸経は夢中の権教なり故に釈籤に云く「性・殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発す・能応と所化と並びに権実に非ず」已上、此れ皆夢幻の中の方便の教なり性雖無殊