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日蓮大聖人・池田大作

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星名五郎太郎殿御返事  (4/4) 種種の威を現じて愚癡の道俗をたぶらかし如来…
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誰か智慧有らん人・此の謗法の流を汲んで共に阿鼻の焔に・やかれん、行者能く畏るべし此れは是れ大邪見の輩なり、所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は譬えば猟師の身に袈裟をかけたるが如し、或は須陀洹・斯那含・阿那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色身を現じて我が正法を壊らん」といへり。

今此の善導・法然等は種種の威を現じて愚癡の道俗をたぶらかし如来の正法を滅す、就中彼の真言等の流れ偏に現在を以て旨とす、所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り荘園等の望をいのる、是くの如き少分のしるしを以て奇特とす、若し是を以て勝れたりといはば彼の月氏の外道等にはすぎじ、彼の阿竭多仙人は十二年の間・恒河の水を耳にただへたりき、又耆菟仙人の四大海を一日の中にすひほし、拘留外道は八百年の間・石となる豈是に・すぎたらんや、又瞿曇仙人が十二年の程・釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさなの身と成りし、其の威徳を論ぜば如何、若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし・当に知るべし彼れ威徳ありといへども猶阿鼻の炎をまぬがれず、況や・はづかの変化にをいてをや況や大乗誹謗にをいてをや、是一切衆生の悪知識なり近付くべからず畏る可し畏る可し、仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ悪知識に於ては畏るる心をなせ、何を以ての故に悪象は但身をやぶり意をやぶらず・悪知識は二共にやぶる故に、此の悪象等は但一身をやぶる悪知識は無量の身・無量の意をやぶる、悪象等は但不浄の臭き身をやぶる・悪知識は浄身及び浄心をやぶる、悪象は但肉身をやぶる悪知識は法身をやぶる、悪象の為に・ころされては三悪に至らず・悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る、此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」と、故に畏る可きは大毒蛇・悪鬼神よりも弘法・善導・法然等の流の悪知識を畏るべし、略して邪見の失を明すこと畢んぬ。

此の使あまりに急ぎ候ほどに・とりあへぬさまに・かたはし・ばかりを申し候、此の後又便宜に委く経釈を見調べてかくべく候、穴賢・穴賢、外見あるべからず候若命つれなく候はば仰せの如く明年の秋・下り候て且つ申すべく候、恐恐。


  十二月五日             日蓮花押

   星名五郎太郎殿御返事

大豆御書

                    文永七年十月 四十九歳御作

大豆一石かしこまつて拝領し畢んぬ法華経の御宝前に申し上候、一渧の水を大海になげぬれば三災にも失せず一華を五浄によせぬれば劫火にもしぼまず、一豆を法華経になげぬれば法界みな蓮なり、恐惶謹言。

  十月二十三日                    日蓮花押

   御所御返事

寿量品得意抄

                    文永八年四月 五十歳御作

教主釈尊寿量品を説き給うに・爾前迹門のききをあげて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり」云云、此の文の意は初め華厳経より終り法華経・安楽行品に至るまで一切の仏の御弟子・大菩薩等の知る処の思いの心中をあげたり、爾前の経に二つの失あり、一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」と申して迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かざる過なり、二には「始成を言う故に尚未だ迹を発わず」と申して久


遠実成の寿量品を説かざる過なり、此の二つの大法は一代聖教の綱骨・一切経の心髄なり、迹門には二乗作仏を説いて四十余年の二つの失・一つを脱したり、然りと雖も未だ寿量品を説かざれば実の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水にやどる月の如く根無し草の浪の上に浮べるに異ならず、又云く「然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫」等云云、此の文の心は華厳経の始成正覚と申して始て仏になると説き給ふ阿含経の初成道・浄名経の始坐仏樹・大集経の始十六年・大日経の我昔坐道場・仁王経の二十九年、無量義経の我先道場・法華経方便品の我始坐道場等を一言に大虚妄なりと打破る文なり、本門寿量品に至つて始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうして・かへてみるときは華厳経の台上盧舎那・阿含経の丈六の小釈迦・方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は此の寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小の・うつはものに浮べ給うを、諸宗の智者学匠等は近くは自宗にまどひ遠くは法華経の寿量品を知らず水中の月に実月のおもひをなして或は入つて取らんとおもひ・或は繩をつけて・つなぎとどめんとす、此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と、心は爾前・迹門に執着する者はそらの月をしらずして但池の月を・のぞみ見るが如くなりと釈せられたり、又僧祇律の文に五百の猨・山より出でて水にやどれる月をみて入つてとらんとしけるが・実には無き水月なれば月とられずして水に落ち入つて猨は死にけり、猨とは今の提婆達多・六群比丘等なりとあかし給へり。

一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからず・みなもとなき河は遠から