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日蓮大聖人・池田大作

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秋元御書  (1/8) 提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の…
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得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。

  正月十一日                     日蓮花押

   秋元殿御返事              安房の国ほたより出す

秋元御書

                    弘安三年一月 五十九歳御作

                    於身延

筒御器一具付三十並に盞付六十送り給び候い畢んぬ、御器と申すは・うつはものと読み候、大地くぼければ水たまる青天浄ければ月澄めり、月出でぬれば水浄し雨降れば草木昌へたり、器は大地のくぼきが如し水たまるは池に水の入るが如し、月の影を浮ぶるは法華経の我等が身に入らせ給うが如し、器に四の失あり・一には覆と申してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏と申して水もるなり、三には汙と申して・けがれたるなり水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑なり・飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑へぬれば人食ふ事なし、器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり、法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば・或は打ち返し・或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ、譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり是は水の漏が如し、或は法華経を行ずる人の一口は


南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し、法華経の文に「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり、世間の学匠は法華経に余行を雑えても苦しからずと思へり、日蓮も・さこそ思い候へども経文は爾らず、譬えば后の大王の種子を妊めるが又民と・とつげば王種と民種と雑りて天の加護と氏神の守護とに捨てられ其の国破るる縁となる、父二人出来れば王にもあらず民にもあらず人非人なり、法華経の大事と申すは是なり、種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず真言五戒等も種ならず、能く能く此の事を習い給べし是は雑なり、此の覆・漏・汙・雑の四の失を離れて候器をば完器と申して・またき器なり、塹つつみ漏らざれば水失る事なし、信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、今此の筒の御器は固く厚く候上・漆浄く候へば法華経の御信力の堅固なる事を顕し給うか、毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて四天下・第一の福天と云はれ給ふ、浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音菩薩と成り給ふ、今法華経に筒御器三十・盞六十・進らせて争か仏に成らせ給はざるべき。

抑日本国と申すは十の名あり・扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり、別しては六十六箇国・島二つ・長さ三千余里広さは不定なり、或は百里・或は五百里等、五畿・七道・郡は五百八十六・郷は三千七百二十九・田の代は上田一万一千一百二十町・乃至八十八万五千五百六十七町・人数は四十九億八万九千六百五十八人なり、神社は三千一百三十二社・寺は一万一千三十七所・男は十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、其の男の中に只日蓮・第一の者なり、何事の第一とならば男女に悪まれたる第一の者なり、其の故は日本国に国多く人多しと云へども其の心一同に南無阿弥陀仏を口ずさみとす、阿弥陀仏を本尊とし九方を嫌いて西方を願う、設い法華経を行ずる人も真言を行ふ人も、戒を持つ者も智者も愚人も余行を傍として念仏を正とし罪を消さん謀


は名号なり、故に或は六万・八万・四十八万返・或は十返・百返・千返なり、而るを日蓮一人・阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・持斎等は国賊なりと申す故に上一人より下万民に至るまで父母の敵宿世の敵・謀叛・夜討・強盗よりも或は畏れ・或は瞋り・或は詈り・或は打つ、是を訾る者には所領を与へ・是を讃むる者をば其の内を出だし或は過料を引かせ・殺害したる者をば褒美なんど・せらるる上・両度まで御勘気を蒙れり、当世第一の不思議の者たるのみならず人王九十代・仏法渡りては七百余年なれども・かかる不思議の者なし、日蓮は文永の大彗星の如し日本国に昔より無き天変なり、日蓮は正嘉の大地震の如し秋津洲に始めての地夭なり、日本国に代始まりてより已に謀叛の者・二十六人・第一は大山の王子・第二は大石の山丸・乃至第二十五人は頼朝・第二十六人は義時なり、二十四人は朝は責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す、二人は王位を傾むけ奉り・国中を手に拳る王法・既に尽きぬ、此等の人人も日蓮が万人に悪まるるに過ぎず、其の由を尋ぬれば法華経には最第一の文あり、然るを弘法大師は法華最第三・慈覚大師は法華最第二・智証大師は慈覚の如し、今叡山・東寺・園城寺の諸僧・法華経に向いては法華最第一と読めども其の義をば第二・第三と読むなり、公家と武家とは子細は知ろしめさねども御帰依の高僧等・皆此の義なれば師檀一同の義なり、其の外禅宗は教外別伝と云云・法華経を蔑如する言なり、念仏宗は千中無一・未有一人得者と申す心は法華経を念仏に対して挙げて失ふ義なり、律宗は小乗なり正法の時すら仏免し給う事なし況や末法に是を行じて国主を誑惑し奉るをや、妲己・妹喜・褒似の三女が三王を誑らかして代を失いしが如し、かかる悪法・国に流布して法華経を失う故に安徳・尊成等の大王・天照太神・正八幡・に捨てられ給いて或は海に沈み或は島に放たれ給い相伝の所従等に傾けられ給いしは天に捨てられさせ給う故ぞかし、法華経の御敵を御帰依有りしかども是を知る人なければ其の失を知る事もなし、「知人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」とは是なり。