Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

三世諸仏総勘文教相廃立  (13/18) 七つの鉄鼓を中り一つの鉄囲山を貫ぬき地を洞…
570

死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う、此くの如く自在なる自行の行を捨て跡形も有らざる無明妄想なる僻思の心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに入り永く仏法に背くこと悲しむ可く悲しむ可し、只今打ち返えし思い直し悟り返さば即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ、我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり故に明と無明とは其の体只一なり鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず只向い様に依つて得失の二つ有り相即融通して一法の二義なり、化他の法門は鏡の裏に向うが如く自行の観心は鏡の面に向うが如し化他の時の鏡も自行の時の鏡も我が心性の鏡は只一にして替ること無し鏡を即身に譬え面に向うをば成仏に譬え裏に向うをば衆生に譬う鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え裏に向う時・面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり、自行と化他とは得失の力用なり玄義の一に云く「薩婆悉達・祖王の弓を彎て満るを名けて力と為す七つの鉄鼓を中り一つの鉄囲山を貫ぬき地を洞し水輪に徹る如きを名けて用と為す自行の力用なり諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し何となれば昔の縁は化他の二智を禀けて理を照すこと遍からず信を生ずること深からず疑を除くこと尽さず已上化他、今の縁は自行の二智を禀けて仏の境界を極め法界の信を起し円妙の道を増し根本の惑を断じ変易の生を損す、但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩倶に益するのみに非ず法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す化の功広大に利潤弘深なる蓋し茲の経の力用なり已上自行」自行と化他との力用勝劣分明なること勿論なり能く能く之を見よ一代聖教を鏡に懸たる教相なり、極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が


身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず故に生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり、法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり、後心の菩薩とは等覚の菩薩なり但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり本門には法身と後身との菩薩を利益す但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に化の功広大なり化他の徳用、利潤弘深とは自行の徳用円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用此くの如し化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し故に成仏の人も無し今法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し、薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり第一の譬に云く諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云取意、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず


不可思議の徳用を顕す、諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し自行と化他との勝劣是くの如し一を以て諸を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり人の語を入れず此の旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰り無し此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり敢て人の会釈を引き入る可からず三世諸仏の出世の本懐なり一切衆生・成仏の直道なり、四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり皆是方便なり兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと悞りの中の悞り迷いの中の迷いなり。

徴佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに四教を出でず頭辺に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推ね徴めよ我が四教の行相を以て並べ検えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば果として成ず可き無し如し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を