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日蓮大聖人・池田大作

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松野殿御返事  (3/6) 仏の如く互に敬うべし、例せば宝塔品の時の釈…
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よりも法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば・我れ大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり、無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし、何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば仏の如く互に敬うべし、例せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし

此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依法不依人此れを思ふべし、されば昔独りの人有りて雪山と申す山に住み給き其の名を雪山童子と云う、蕨をおり菓を拾いて命をつぎ鹿の皮を著物とこしらへ肌をかくし閑に道を行じ給いき、此の雪山童子おもはれけるは倩世間を観ずるに生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す、されば憂世の中のあだはかなき事譬ば電光の如く朝露の日に向ひて消るに似たり、風の前の灯の消へやすく・芭蕉の葉の破やすきに異ならず、人皆此の無常を遁れず終に一度は黄泉の旅に趣くべし、然れば冥途の旅を思うに闇闇として・くらければ日月星宿の光もなく、せめて灯燭とて・ともす火だにもなし、かかる闇き道に又ともなふ人もなし、娑婆にある時は親類・兄弟・妻子・眷属集りて父は慈みの志高く母は悲しみの情深く、夫妻は海老同穴の契りとて大海にあるえびは同じ畜生ながら夫妻ちぎり細かに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如く・鴛鴦の衾の下に枕を並べて遊び戯る中なれども・彼の冥途の旅には伴なふ事なし、冥冥として独り行く誰か来りて是非を訪はんや、或は老少不定の境なれば老いたるは先立・若きは留まる是れは順次の道理なり歎きの中にも・せめて思いなぐさむ方も有りぬべし、老いたるは留まり若きは先立つされば恨の至つて恨めしきは幼くして親に先立つ子、歎きの至つて歎かしきは老いて子を先立つる親なり、是くの如く生死・無常・老少不定の境あだに・はかなき世の中に・但昼夜に今生の貯をのみ思ひ朝夕に現世の業をのみなして、仏をも敬はず法をも信ぜず無行無智にして徒らに明し暮して、閻魔の庁庭に引き迎へ


られん時は何を以つてか資糧として三界の長途を行き、何を以て船筏として生死の曠海を渡りて実報寂光の仏土に至らんやと思ひ、迷へば夢覚れば寤しかじ夢の憂世を捨てて寤の覚りを求めんにはと思惟し、彼の山に籠りて観念の牀の上に妄想顛倒の塵を払ひ偏に仏法を求め給う所に。

帝釈遙に天より見下し給いて思し食さるる様は、魚の子は多けれども魚となるは少なく・菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし、人も又此くの如し菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入る者は少し、都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ事にふれて移りやすき物なり、鎧を著たる兵者は多けれども戦に恐れをなさざるは少なきが如し、此の人の意を行て試みばやと思いて帝釈・鬼神の形を現じ童子の側に立ち給う、其の時仏世にましまさざれば雪山童子普く大乗経を求むるに聞くことあたはず、時に諸行無常・是生滅法と云う音ほのかに聞ゆ、童子驚き四方を見給うに人もなし但鬼神近付て立ちたり、其の形けはしく・をそろしくて頭のかみは炎の如く口の歯は剣の如く目を瞋らして雪山童子をまほり奉る、此れを見るにも恐れず偏に仏法を聞かん事を喜び怪しむ事なし、譬えば母を離れたるこうしほのかに母の音を聞きつるが如し、此事誰か誦しつるぞ・いまだ残の語あらんとて普ねく尋ね求るに更に人もなければ、若しも此の語は鬼神の説きつるかと疑へどもよも・さもあらじと思ひ彼の身は罪報の鬼神の形なり此の偈は仏の説き給へる語なり、かかる賤き鬼神の口より出づべからずとは思へども、亦殊に人もなければ若し此の語汝が説きつるかと問へば、鬼神答て云う我れに物な云いそ食せずして日数を経ぬれば飢え疲れて正念を覚えず、既にあだごと云いつるならん我うつける意にて云へば知る事もあらじと答ふ、童子の云く我れは此の半偈を聞きつる事半なる月を見るが如く半なる玉を得るに似たり、慥に汝が語なり願くは残れる偈を説き給へとのたまふ、鬼神の云く汝は本より悟あれば聞かずとも恨は有るべからず吾は今飢に責められたれば物を云うべき力なし都て我に向いて物な云いそと云う、童子猶物を食ては説かんやと


問う、鬼神答て食ては説きてんと云う、童子悦びてさて何物をか食とするぞと問へば、鬼神の云く汝更に問うべからず此れを聞きては必ず恐を成さん、亦汝が求むべき物にもあらずと云へば童子猶責めて問い給はく其の物をとだにも云はば心みにも求めんとの給えば鬼神の云く我れ但人の和らかなる肉を食し人のあたたかなる血を飲む、空を飛び普ねく求れども人をば各守り給う仏神ましませば心に任せて殺しがたし、仏神の捨て給う衆生を殺して食するなりと云う、其時雪山童子の思い給はく我れ法の為に身を捨て此の偈を聞き畢らんと思いて、汝が食物ここに有り外に求むべきにあらず、我が身いまだ死せず其の肉あたたかなり我が身いまだ寒ず其の血あたたかならん、願くは残の偈を説き給へ此の身を汝に与えんと云う、時に鬼神大に瞋て云く誰か汝が語を実とは憑むべき、聞いて後には誰をか証人として糾さんと云う、雪山童子の云く此の身は終に死すべし徒に死せん命を法の為に投げばきたなく・けがらはしき身を捨てて後生は必ず覚りを開き仏となり清妙なる身を受くべし、土器を捨てて宝器に替るが如くなるべし、梵天・帝釈・四大天王・十方の諸仏・菩薩を皆証人とせん我れ更に偽るべからずとの給えり、其の時鬼神少し和で若し汝が云う処実ならば偈を説かんと云う其の時雪山童子大に悦んで身に著たる鹿の皮を脱いで法座に敷頭を地に付け掌を合せ跪き、但願くは我が為に残の偈を説き給へと云うて至心に深く敬い給ふ、さて法座に登り鬼神偈を説いて云く生滅滅已・寂滅為楽と此の時雪山童子是れを聞き悦び貴み給う事限なく後生までも忘れじと度度誦して深く其の心にそめ、悦ばしき処はこれ仏の説き給へるにも異ならず歎かわ敷き処は我れ一人のみ聞きて人の為に伝へざらん事をと深く思いて石の上・壁の面・路の辺の諸木ごとに此の偈を書き付け願くは後に来らん人必ず此の文を見其の義理をさとり実の道に入れと云い畢つて、即高き木に登りて鬼神の前に落ち給へり、いまだ地に至らざるに鬼神俄に帝釈の形と成りて雪山童子の其身を受取りて平かなる所にすえ奉りて恭敬礼拝して云く我れ暫く如来の聖教を惜みて試に菩薩の心を悩し奉るなり、願くは此の罪を許して後