Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

祈祷経送状  (2/2) 仮使山谷に籠居候とも御病も平癒して便宜も吉…
1357

して御分の御事はさこそ候はんずらめ、仮使山谷に籠居候とも御病も平癒して便宜も吉候はば身命を捨て弘通せしめ給ふべし

一仰せを蒙りて候末法の行者・息災延命の祈祷の事、別紙に一巻註し進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらるべく候、日蓮も信じ始め候し日より毎日此れ等の勘文を誦し候て仏天に祈誓し候によりて、種種の大難に遇うと雖も法華経の功力釈尊の金言深重なる故に今まで相違無くて候なり、其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。

一御状に十七出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等云云、権教を信ぜし大謗法の時の事は何なる持戒の行人と申し候とも、法華経に背く謗法罪の故に正法の破戒の大俗よりも百千万倍劣り候なり、彼の謗法の比丘は持戒なりと雖も無間に墜す、正法の大俗は破戒なりと雖も成仏疑い無き故なり、但今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰し給う故に誠に持戒の中の清浄の聖人なり、尤も比丘と成つては権宗の人すら尚然る可し況や正法の行人をや、仮使権宗の時の妻子なりともかかる大難に遇はん時は振捨て正法を弘通すべきの処に地体よりの聖人尤も吉し尤も吉し、相構え相構え向後も夫妻等の寄来とも遠離して一身に障礙無く国中の謗法をせめて釈尊の化儀を資け奉る可き者なり、猶猶向後は此の一巻の書を誦して仏天に祈誓し御弘通有る可く候但此の書は弘通の志有らん人に取つての事なり、此の経の行者なればとて器用に能はざる者には左右無く之を授与すべからず候か、穴賢穴賢、恐恐謹言。

  文永十年癸酉正月二十八日              日蓮花押

   最蓮房御返事


諸法実相抄

                    文永十年五月 五十二歳御作

                           与 最蓮房日浄

                    日蓮之を記す

問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・


本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。

日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給ふ多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん、さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量するも多少其の辺を得ず」と云へり、地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈に別人の事を説き給うならんや、されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ばん、然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天