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日蓮大聖人・池田大作

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三三蔵祈雨事  (4/4) この外道と申すは先仏の経経を見て・よみそこ…
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むこり国だにも・つよくせめ候わば今生にもひろまる事も候いなん、あまりにはげしくあたりし人人は・くゆるへんもや・あらんずらん。

外道と申すは仏前・八百年よりはじまりて、はじめは二天・三仙にてありしが・やうやく・わかれて九十五種なり、其の中に多くの智者・神通のもの・ありしかども一人も生死をはなれず、又帰依せし人人も善につけ悪につけて皆三悪道に堕ち候いしを・仏出世せさせ給いてありしかば、九十五種の外道・十六大国の王臣諸民をかたらひて或はのり或はうち或は弟子或はだんな等・無量無辺ころせしかども仏たゆむ心なし、我此の法門を諸人にをどされていゐやむほどならば一切衆生地獄に堕つべしと・つよくなげかせ給いしゆへに・退する心なし、この外道と申すは先仏の経経を見て・よみそこないて候いしより事をこれり

今も又かくのごとし、日本の法門多しといへども源は八宗・九宗・十宗よりをこれり、十宗のなかに華厳等の宗宗は・さてをきぬ、真言と天台との勝劣に弘法・慈覚・智証のまどひしによりて日本国の人人・今生には他国にもせめられ後生にも悪道に堕つるなり、漢土のほろび又悪道に堕つる事も善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじまれり、又天台宗の人人も慈覚・智証より後は・かの人人の智慧にせかれて天台宗のごとくならず、されば・さのみやはあるべき。

いわうや日蓮は・かれにすぐべきとわが弟子等をぼせども・仏の記文にはたがはず、末法に入つて仏法をばうじ無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をへたらん人は爪上の土よりも・すくなしと涅槃経にはとかれ、法華経には設い須弥山をなぐるものはありとも・我が末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたしと記しをかせ給へり、大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちなひをん経・最勝王経等に末法に入つて正法を行ぜん人・出来せば邪法のもの王臣等にうたへて・あらんほどに彼の王臣等・他人が・ことばにつひて一人の正法のものを


或はのり或はせめ或はながし或はころさば梵王・帝釈・無量の諸天・天神・地神等・りんごくの賢王の身に入りかはりてその国をほろぼすべしと記し給へり、今の世は似て候者かな。

抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ、能く能く過去を御尋ね有らば・なにと無くとも此度生死は離れさせ給うべし、すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れ偏に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず事繁ければ止め置き候い畢んぬ、抑当時の怱怱に御志申す計り候はねば大事の事あらあらをどろかしまひらせ候、ささげ青大豆給い候いぬ。

  六月二十二日                    日蓮花押

   西山殿御返事

蒙古使御書

                    建治元年 五十四歳御作

                    与 西山高橋入道

鎌倉より事故なく御下りの由承り候いてうれしさ申す計りなし、又蒙古の人の頸を刎られ候事承り候日本国の敵にて候念仏真言禅律等の法師は切られずして科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ子細を知ざる人は勘へあてて候をおごりて云うと思ふべし此の二十余年の間私には昼夜に弟子等に歎き申し公には度度申せし事是なり一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり最勝王経に云く「害の中の極めて重きは国位を失うに過ぎたること無し」等云云、文の心は一切の悪の中に国王と成りて政悪くして我が国を他国に破らるるが第一の悪にて候と説れて候又金光明経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇う」等云云、文の心は国王と成りて悪人を愛し善人を科にあつれば必ず其の国他国に破らるると云う文なり、法華経第五に云く「世に恭敬せらるるを為ること六通の羅漢の如くならん」等云云、文の心は法華経


の敵の相貌を説きて候に・二百五十戒を堅く持ち迦葉舎利弗の如くなる人を・国主これを尊みて法華経の行者を失なはむとするなりと説れて候ぞ。

夫れ大事の法門と申すは別に候はず、時に当て我が為め国の為め大事なる事を少しも勘へたがへざるが智者にては候なり、仏のいみじきと申すは過去を勘へ未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候御智慧はなし、設い仏にあらねども竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人・賢人等は仏程こそ・なかりしかども・三世の事を粗知しめされて候しかば名をも未来まで流されて候き、所詮・万法は己心に収まりて一塵もかけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり、然りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず・嬰児の水火を怖れざるが如し、外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、然れば経経に勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ、法門多多なれば止め候い畢んぬ。

鎌倉より御下りそうそうの御隙に使者申す計りなし、其の上種種の物送り給候事悦び入つて候、日本は皆人の歎き候に日蓮が一類こそ歎きの中に悦び候へ、国に候へば蒙古の責はよも脱れ候はじなれども・国のために責られ候いし事は天も知しめして候へば後生は必ずたすかりなんと悦び候に・御辺こそ今生に蒙古国の恩を蒙らせ給いて候へ、此の事起らずば最明寺殿の十三年に当らせ給いては御かりは所領にては申す計りなし、北条六郎殿のやうに筑紫にや御坐なん、是は各各の御心のさからせ給うて候なり、人の科をあてるにはあらず、又一には法華経の御故にたすからせ給いて候いぬるか・ゆゆしき御僻事なり、是程の御悦びまいりても悦びまいらせ度く候へども人聞つつましく候いてとどめ候い畢んぬ。

  乃時                        日蓮花押

    西山殿御返事