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日蓮大聖人・池田大作

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星名五郎太郎殿御返事  (2/4) 当世の道俗・貴賤皆人をあがめて法を用いず心…
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皆悉く大師に帰す。

又我が朝の叡山の根本大師は南都・北京の碩学と論じて仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり、今当世の道俗・貴賤皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず、之に依て或は念仏・権教を以て大乗妙典をなげすて・或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず、是等の類・豈大乗誹謗のやからに非ずや、若し経文の如くならば争か那落の苦みを受けざらんや、之に依て其の流をくむ人も・かくの如くなるべし、疑つて云く念仏・真言は是れ或は権・或は邪義・又行者或は邪見或は謗法なりと此の事甚だ以て不審なり、其の故は弘法大師は是れ金剛薩埵の化現・第三地の菩薩なり、真言は是れ最極甚深の秘密なり、又善導和尚は西土の教主・弥陀如来の化身なり、法然上人は大勢至菩薩の化身なりかくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり、真言の教は最極の秘密なりと云うは三部経の中に於て蘇悉地経を以て王とすと見えたり、全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云う事を見ず、凡そ仏法と云うは善悪の人をゑらばず皆仏になすを以て最第一に定むべし、是れ程の理をば何なる人なりとも知るべきことなり、若し此の義に依らば経と経とを合せて是を挍すべし、今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへ・あながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経には・すべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき、又若し其の瑞相を論ぜば法華には六瑞あり、所謂雨華地動し白毫相の光り上は有頂を極め下は阿鼻獄を照せる是なり、又多宝の塔・大地より出て分身の諸仏十方より来る、しかのみならず上行等の菩薩の六万恒沙・五万・四万・三万乃至・一恒沙・半恒沙等大地よりわきいでし事・此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言法華にまされりと云わん、此等の事委くのぶるにいとまあらず・はづかに大海の一滴を出す。


爰に菩提心論と云う一巻の文あり竜猛菩薩の造と号す、此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕いて書るさず」と云えり、此の語は大に不審なるに依て経文に就てこれを見るに即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし、たとひありとも法華経の中に即身成仏あらば諸教の中にをいてかいて而もかかずと云うべからず此の事甚だ以て不可なり、但し此の書は全く竜猛の作にあらず委き旨は別に有るべし、設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり、故に大論に一代をのぶる肝要として「般若は秘密にあらず二乗作仏なし法華は是秘密なり二乗作仏あり」と云えり、又云く「二乗作仏あるは是秘密・二乗作仏なきは是顕教」と云えり、若し菩提心論の語の如くならば別しては竜樹の大論にそむき総じては諸仏出世の本意・一大事の因縁をやぶるにあらずや、今竜樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出ず、付法蔵・二十四人の其の一なり何ぞ此くの如き妄説をなさんや、彼の真言は是れ般若経にも劣れり何に況や法華に並べんや、爾るに弘法の秘蔵宝鑰に真言に一代を摂するとして法華を第三番に下し、あまつさへ戯論なりと云えり、謹んで法華経を披きたるに諸の如来の所説の中に第一なりと云えり、又已今当の三説に勝れたりと見えたり、又薬王の十喩の中に法華を大海にたとへ・日輪にたとへ・須弥山にたとへたり、若し此の義に依らば深き事何ぞ海にすぎん・明かなる事何ぞ日輪に勝れん・高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん、喩を以て知んぬべし何を以てか法華に勝れたりと云はんや、大日経等に全く此の義なし但己が見に任せて永く仏意に背く、妙楽大師曰く「請う眼有らん者は委悉に之を尋ねよ」と云へり、法華経を指て華厳に劣れりと云うは豈眼ぬけたるものにあらずや、又大経に云く「若し仏の正法を誹謗する者あらん正に其の舌を断べし」と、嗚呼・誹謗の舌は世世に於て物云うことなく邪見の眼は生生に・ぬけて見ること無らん加之らず「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば・乃至其の人命終えて阿鼻獄に入らん」の文の如くならば定めて無間大城に堕ちて無量億劫のくるしみを受けん、善導・法然も是に例して知んぬべし、


誰か智慧有らん人・此の謗法の流を汲んで共に阿鼻の焔に・やかれん、行者能く畏るべし此れは是れ大邪見の輩なり、所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は譬えば猟師の身に袈裟をかけたるが如し、或は須陀洹・斯那含・阿那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色身を現じて我が正法を壊らん」といへり。

今此の善導・法然等は種種の威を現じて愚癡の道俗をたぶらかし如来の正法を滅す、就中彼の真言等の流れ偏に現在を以て旨とす、所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り荘園等の望をいのる、是くの如き少分のしるしを以て奇特とす、若し是を以て勝れたりといはば彼の月氏の外道等にはすぎじ、彼の阿竭多仙人は十二年の間・恒河の水を耳にただへたりき、又耆菟仙人の四大海を一日の中にすひほし、拘留外道は八百年の間・石となる豈是に・すぎたらんや、又瞿曇仙人が十二年の程・釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさなの身と成りし、其の威徳を論ぜば如何、若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし・当に知るべし彼れ威徳ありといへども猶阿鼻の炎をまぬがれず、況や・はづかの変化にをいてをや況や大乗誹謗にをいてをや、是一切衆生の悪知識なり近付くべからず畏る可し畏る可し、仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ悪知識に於ては畏るる心をなせ、何を以ての故に悪象は但身をやぶり意をやぶらず・悪知識は二共にやぶる故に、此の悪象等は但一身をやぶる悪知識は無量の身・無量の意をやぶる、悪象等は但不浄の臭き身をやぶる・悪知識は浄身及び浄心をやぶる、悪象は但肉身をやぶる悪知識は法身をやぶる、悪象の為に・ころされては三悪に至らず・悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る、此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」と、故に畏る可きは大毒蛇・悪鬼神よりも弘法・善導・法然等の流の悪知識を畏るべし、略して邪見の失を明すこと畢んぬ。

此の使あまりに急ぎ候ほどに・とりあへぬさまに・かたはし・ばかりを申し候、此の後又便宜に委く経釈を見調べてかくべく候、穴賢・穴賢、外見あるべからず候若命つれなく候はば仰せの如く明年の秋・下り候て且つ申すべく候、恐恐。