Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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清澄寺大衆中  (2/3) 一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり…
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国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ、結句は天魔入り替つて檀那をほろぼす仏像となりぬ王法の尽きんとするこれなり、此の悪真言かまくらに来りて又日本国をほろぼさんとす。

其の上禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり、此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて其の後二十余年が間・退転なく申す、或は所を追い出され或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を今は見る日蓮が刀剣に当る事を、日本国の有智・無智・上下・万人の云く日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと、日蓮この不審をはらさんがために正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘えて云く我が朝に二つの大難あるべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、自界は鎌倉に権の大夫殿・御子孫どしうち出来すべし、他国侵逼難は四方よりあるべし、其の中に西より・つよくせむべし、是れ偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに梵天・帝釈の他国に仰せつけて・せめらるるなるべし。

日蓮をだに用いぬ程ならば将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍・百千万人ありとも叶ふべからず、これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候いき、就中清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にも・をもひをとさせ給はば今生には貧窮の乞者とならせ給ひ後生には無間地獄に堕ちさせ給うべし・故いかんとなれば東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり、此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給うべき、大衆も日蓮を心へずに・をもはれん人人は天にすてられ・たてまつらざるべしや、かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申す


なり。

領家の尼ごぜんは女人なり愚癡なれば人人のいひをどせば・さこそとましまし候らめ、されども恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なればいかにしても後生をたすけたてまつらんと・こそいのり候へ、法華経と申す御経は別の事も候はず我は過去・五百塵点劫より先の仏なり、又舎利弗等は未来に仏になるべしと、これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし、我のみかう申すにはあらず多宝仏も証明し十方の諸仏も舌をいだして・かう候、地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日月・四天・十羅刹・法華経の行者を守護し給はんと説かれたり、されば仏になる道は別のやうなし過去の事・未来の事を申しあてて候が・まことの法華経にては候なり。

日蓮はいまだ・つくしを見ずえぞしらず、一切経をもつて勘へて候へば・すでに値いぬ、もし・しからば各各・不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給うべしと申し候はたがひ候べきか、今はよし後をごらんぜよ日本国は当時のゆき対馬のやうになり候はんずるなり、其の時安房の国にむこが寄せて責め候はん時日蓮房の申せし事の合うたりと申すは偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり。

  正月十一日                     日蓮花押

   安房の国清澄寺大衆中

このふみはさど殿と・すけあさり御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとに・よみきかせ給へ。


聖密房御書

                  建治三年 五十六歳御作

大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云く「大日経の理と法華経の理とは同じ事なり但印と真言とが法華経は劣なり」と立てたり、良諝和尚・広修・維蠲なんど申す人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず但方等部の経なるべし、日本の弘法大師云く「法華経は猶華厳経等に劣れりまして大日経には及ぶべからず」等云云、又云く「法華経は釈迦の説・大日経は大日如来の説・教主既にことなり・又釈迦如来は大日如来の御使として顕教をとき給うこれは密教の初門なるべし」或は云く「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども密教に対すれば具縛の凡夫なり」と云云。

日蓮勘えて云く大日経は新訳の経・唐の玄宗皇帝の御時・開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る、法華経は旧訳の経・後秦の御宇に羅什三蔵もて来る其の中間三百余年なり、法華経亘て後百余年を経て天台智者大師・教門には五時四教を立てて上五百余年の学者の教相をやぶり観門には一念三千の法門をさとりて始めて法華経の理を得たり、天台大師已前の三論宗・已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず一念三千の法門をば立つべきやうなし、華厳宗は天台已前には南北の諸師・華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども華厳宗の名は候はず、唐の代に高宗の后・則天皇后と申す人の御時・法蔵法師・澄観なんど申す人・華厳宗の名を立てたり、此の宗は教相に五教を立て観門には十玄・六相なんど申す法門なり、をびただしきやうに・みへたりしかども澄観は天台をはするやうにて・なを天台の一念三千の法門をかりとりて我が経の心如工画師の文の心とす、これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか、澄観は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれ