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日蓮大聖人・池田大作

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善無畏三蔵抄  (9/10) 穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれ…
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然れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起らざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、中中・山人・海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経・釈迦仏をば打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、一向悪人はいまだ仏法に帰せず釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ずる辺もや有らんずらん、善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人人は多生曠劫をふるとも此の邪見を翻へして釈迦仏・法華経に帰すべしとは見えず、されば雙林最後の涅槃経に十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば此の人もこころえずげに思いておはしき、傍座の人人もこころえずげに・をもはれしかども其の後承りしに法華経を持たるるの由承りしかば此の人邪


見を翻し給ふか善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし、当座には強なる様に有りしかども法華経の文のままに説き候いしかばかうおれさせ給へり、忠言耳に逆らい良薬口に苦しと申す事は是なり。

今既に日蓮・師の恩を報ず定めて仏神・納受し給はんか、各各此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし、仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり、当世・学匠等の法門は輭語・実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗・真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語・輭語なるべし、例せば此の道善御房の法華経を迎へ釈迦仏を造らせ給う事は日蓮が強言より起る、日本国の一切衆生も亦復是くの如し、当世・此の十余年已前は一向念仏者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向念仏申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ又釈迦仏を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る、譬えば栴檀は伊蘭より生じ蓮華は泥より出でたり而るに念仏は無間地獄に堕つると申せば当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。

  文永七年                      日蓮花押

   義浄房浄顕房


佐渡御勘気抄

                    文永八年十月 五十歳御作

                    与 円浄房   於佐渡

九月十二日に御勘気を蒙て今年十月十日佐渡の国へまかり候なり、本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし、天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頸をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく仏法のゆへなり、日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず、道善の御房にも・かう申しきかせまいらせ給うべし、領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども先かかる身のふみなれば・なつかしやと・おぼさざるらんと申しぬると便宜あらば各各・御物語り申させ給い候へ。

  十月 日                      日蓮花押