Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法華真言勝劣事  (4/8) 裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる…
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り、天台宗の義勢才覚の為に此の義を難ず、天台真言の僻見此くの如し、東寺所立の義勢は且く之を置く僻見眼前の故なり、抑天台真言宗の所立・理同事勝に二難有り、一には法華経と大日経と理同の義其の文全く之無し、法華経と大日経と先後如何、既に義釈に二経の前後之を定め畢つて法華経は先き大日経は後なりと云へり、若し爾らば大日経は法華経の重説なる流通なり、一法を両度之を説くが故なり若し所立の如くば法華経の理を重ねて之を説くを大日経と云う、然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は大日経の理之を奪つて法華経に付く可し、但し大日経の得分は但印真言計りなり、印契は身業・真言は口業なり身口のみにして意無くば印・真言有る可からず、手口等を奪つて法華経に付けなば手無くして印を結び口無くして真言を誦せば虚空に印真言を誦結す可きか如何、裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者との譬の事、裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何れが勝るるや、又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん此れは理同の義を難ずるなり、次に事勝の義を難ぜば法華経には印・真言無く大日経には印真言之有りと云云、印契真言の有無に付て二経の勝劣を定むるに大日経に印真言有つて法華経に之無き故に劣ると云わば、阿含経には世界建立・賢聖の地位是れ分明なり、大日経には之無し、彼の経に有る事が此の経に無きを以て勝劣を判ぜば大日経は阿含経より劣るか、雙観経等には四十八願是れ分明なり大日経に之無し、般若経には十八空是れ分明なり大日経には之無し、此等の諸経に劣ると云う可きか、又印・真言無くんば仏を知る可からず等と云云、今反詰して云く理無くんば仏有る可からず仏無くんば印契真言・一切徒然と成るべし。

彼難じて云く賢聖並に四十八願等をば印真言に対す可からず等と云云、今反詰して云く最上の印真言之無くば法華経は大日経等よりも劣るか、若し爾らば法華経には二乗作仏・久遠実成之有り大日経には之無し印真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり、諸経に印真言を簡わざるに大日経に之を説いて何の詮か有る可き


や、二乗若し灰断の執を改めずんば印真言も無用なり、一代の聖教に皆二乗を永不成仏と簡い随つて大日経にも之を隔つ、皆成仏までこそ無からめ三分が二之を捨て百分が六十余分得道せずんば仏の大悲何かせん、凡そ理の三千之有つて成仏すと云う上には何の不足か有る可き成仏に於ては瘂なる仏・中風の覚者は之有る可からず、之を以て案ずるに印真言は規模無きか、又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず、本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり、寿量品に此の旨を顕す釈尊は天の一月・諸仏菩薩は万水に浮べる影なりと見えたり、委細の旨は且く之を置く。

又印・真言無くんば祈祷有る可からずと云云、是れ又以ての外の僻見なり、過去現在の諸仏・法華経を離れて成仏す可からず法華経を以て正覚を成じ給う、法華経の行者を捨て給わば諸仏還つて凡夫と成り給うべし恩を知らざる故なり、又未来の諸仏の中の二乗も法華経を離れては永く枯木敗種なり、今は再生の華果なり、他経の行者と相論を為す時は華光如来・光明如来等は何れの方に付く可きや、華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天・乃至四悪趣等の衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞いて正覚を成ず可し何れの方に付く可きや、真言宗等と外道並に小乗・権大乗の行者等と敵対相論を為すの時は甲乙知り難し、法華経の行者に対する時は竜と虎と師子と兎との闘いの如く諍論分絶えたる者なり、慧亮脳を破りし時・次第位に即き相応加持する時・真済の悪霊伏せらるる等是なり、一向真言の行者は法華経の行者に劣れる証拠是なり、問うて云く義釈の意は法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かすや如何、答えて云く共に之を明かす、義釈に云く「此の経の心の実相は彼の経の諸法実相なり」と云云、又云く「本初は是れ寿量の義なり」等と云云。

問うて云く華厳宗の義に云く華厳経には二乗作仏・久遠実成之を明かす、天台宗は之を許さず、宗論は且く之を置く人師を捨てて本経を存せば華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文之有りと雖も実には之無し、之


を以て之を思うに義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も実には之無きか如何、答えて云く華厳経の如く相似の文之有りと雖も実義之無きか、私に云く二乗作仏無くば四弘誓願満足す可からず、四弘誓願満たずんば又別願も満す可からず、総別の二願満せずんば衆生の成仏も有り難きか能く能く意得可し云云。

問うて云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なり遙に五百塵点に勝れたりと如何、答う毘廬遮那の無始無終なる事華厳・浄名・般若等の諸大乗経に之を説く独り大日経のみに非ず、問うて云く若し爾らば五百塵点は際限有れば有始有終なり無始無終は際限無し、然れば則ち法華経は諸経に破せらるるか如何、答えて云く他宗の人は此の義を存す天台一家に於て此の難を会通する者有り難きか、今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり、大日経等の諸大乗経には全く此の義無し、宝塔の涌現・地涌の涌出・弥勒の疑・寿量品の初の三誡四請・弥勒菩薩・領解の文に「仏希有の法を説きたもう昔より未だ曾つて聞かざる所なり」等の文是なり、大日経六巻並に供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請・三誡四請・二乗の劫国名号・難信難解等の文を見ず。

問うて云く五乗の真言如何、答う未だ二乗の真言を知らず四諦・十二因縁の梵語のみ有るなり、又法身平等に会すること有らんや。

問うて云く慈覚・智証等・理同事勝の義を存す争か此等の大師等に過ぎんや、答えて云く人を以て人を難ずるは仏の誡なり何ぞ汝・仏の制誡に違背するや但経文を以て勝劣の義を存す可し、難じて云く末学の身として祖師の言に背かば之を難ぜざらんや、答う末学の祖師に違する之を難ぜば何ぞ智証慈覚の天台・妙楽に違するを何ぞ之を難ぜざるや、問うて云く相違如何、答えて云く天台妙楽の意は已今当の三説の中に法華経に勝れたる経之れ有