Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

法門申さるべき様の事  (7/8) 師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道は…
1271

而るに末代に及びて天台・真言・両宗中あしうなりて骨と肉と分け座主は一向に真言となる骨なき者のごとし・大衆は多分・天台宗なり肉なきもののごとし、仏法に諍いあるゆへに世間の相論も出来して叡山静ならず朝下にわづらい多し、此等の大事を内内は存すべし、此の法門はいまだをしえざりき・よくよく存知すべし。

又念仏宗は法華経を背いて浄土の三部経につくゆへに阿弥陀仏を正として釈迦仏をあなづる、真言師大日をせんとをもうゆへに釈迦如来をあなづる、戒にをいては大小殊なれども釈尊を本とす余仏は証明なるべし、諸宗殊なりとも釈迦を仰ぐべきか、師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり、仏道の内には小乗をもつて大乗を失い権大乗をもつて実大乗を失うべし、此等は又外道のごとし、又小乗・権大乗よりは実大乗・法華経の人人が・かへりて法華経をば失はんが大事にて候べし、仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆえに異国・我が朝をほろぼさんとす、叡山の正法の失するゆえに大天魔・日本国に出来して法然大日等が身に入り、此等が身を橋として王臣等の御身にうつり住み、かへりて叡山三千人に入るゆえに師檀中不和にして御祈祷しるしなし、御祈請しるしなければ三千の大衆等檀那にすてはてられぬ。

又王臣等・天台・真言の学者に問うて云く念仏・禅宗等の極理は天台・真言とは一つかととはせ給へば、名は天台真言にかりて其の心も弁えぬ高僧・天魔にぬかれて答えて云く、禅宗の極理は天台真言の極理なり・弥陀念仏は法華経の肝心なりなんど答え申すなり、而るを念仏者・禅宗等のやつばらには天魔乗りうつりて当世の天台真言の僧よりも智慧かしこきゆえに全くしからず、禅は・はるかに天台真言に超えたる極理なり、或は云く「諸教は理深我等衆生は解微なり、機教相違せり得道あるべからず」なんど申すゆへに、天台・真言等の学者・王臣等・檀那皆奪いとられて御帰依なければ現身に餓鬼道に堕ちて友の肉をはみ・仏神にいかりをなし檀那をすそし年年に災


を起し或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい或は生身の弥勒菩薩をほろぼす、進んでは教主釈尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か、この大罪は経論にいまだとかれず、又此の大罪は叡山三千人の失にあらず公家武家の失となるべし。

日本一州・上下万人・一人もなく謗法なれば大梵天王・帝桓並びに天照大神等・隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか、例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶけたてまつり結句は山王・大仏殿をやきはらいしかば天照大神・正八幡・山王等よりきせさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき、今一国挙りて仏神の敵となれり、我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起るとみへたり、例せば震旦・高麗等は天竺についでは仏国なるべし、彼の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ、日本国は彼の二国の弟子なり二国のほろぼされんにあに此の国安穏なるべしや、国をたすけ家ををもはん人人はいそぎ禅・念がともがらを経文のごとくいましめらるべきか、経文のごとくならば仏神・日本国にましまさず、かれを請しまいらせんと術はおぼろげならでは叶いがたし、先ず世間の上下万人云く八幡大菩薩は正直の頂にやどり給い別のすみかなし等云云、世間に正直の人なければ大菩薩のすみかましまさず、又仏法の中に法華経計りこそ正直の御経にては・おはしませ、法華経の行者なければ大菩薩の御すみか・おはせざるか。

但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世・正直の者にては候へ、其の故は故最明寺入道に向つて禅宗は天魔のそいなるべしのちに勘文もつてこれをつげしらしむ、日本国の皆人・無間地獄に堕つべし、これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ、これをもつて推察あるべし・それより外の小事曲ぐべしや、又聖人は言をかざらずと申す、又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか、日蓮は聖人の一分にあたれり、此の法門のゆへに二十余所をわれ結句流罪に及び身に多くのきずをかをほり弟子をあまた殺させたり、比干にもこえ伍しそ


にもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか、もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、日蓮を此の国に用いずば・いかんがすべきと・なげかれ候なりと申せ、又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。

十章抄

                    文永八年五月 五十歳御作

                    与 三位公日行

華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の釈にばかされて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず