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日蓮大聖人・池田大作

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妙一女御返事  (5/5) 日蓮は日月の御ためには・をそらくは大事の御…
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問うて云く両方の義相違すといへども汝が義のごとく水火ならず誹謗正法とはいわず如何、答えて云く誹謗正法とは其の相貌如何・外道が仏教をそしり・小乗が大乗をそしり・権大乗が実大乗を下し・実大乗が権大乗に力をあわせ・詮ずるところは勝を劣という・法にそむくがゆへに謗法とは申すか、弘法大師の大日経を法華経華厳経に勝れたりと申す証文ありや、法華経には華厳経・大日経等を下す文分明なり、所謂已今当等なり、弘法尊しと雖も釈迦多宝十方分身の諸仏に背く大科免れ難し事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ、汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん、日月・天眼を開いて御覧あるべし、将又日月の宮殿には法華経と大日経と華厳経とをはすと・けうしあわせて御覧候へ、弘法・慈覚・智証・安然の義と日蓮が義とは何れがすぐれて候、日蓮が義もし百千に一つも道理に叶いて候はば・いかに・たすけさせ給はぬぞ彼の人人の御義もし邪義ならば・いかに日本国の一切衆生の無眼の報をへ候はんをば不便とはをぼせ候はぬぞ。

日蓮が二度の流罪結句は頸に及びしは釈迦・多宝・十方の諸仏の御頸を切らんとする人ぞかし日月は一人にてをはせども四天下の一切衆生の眼なり命なり、日月は仏法をなめて威光勢力を増し給うと見へて候、仏法のあぢわいをたがうる人は日月の御力をうばう人・一切衆生の敵なり、いかに日月は光を放ちて彼等が頂をてらし寿命と衣食とを・あたへて・やしなひ給うぞ、彼の三大師の御弟子等が法華経を誹謗するは偏に日月の御心を入れさせ給いて謗ぜさせ給うか、其の義なくして日蓮が・ひが事ならば日天もしめし彼等にもめしあはせ・其の理にまけてありとも其の心ひるがへらずば・天寿をも・めしとれかし。

其の義はなくしてただ理不尽に彼等にさるの子を犬にあづけねづみの子を貓にたぶやうに・うちあづけて・さんざんにせめさせ給いて彼等を罰し給はぬ事・心へられず、日蓮は日月の御ためには・をそらくは大事の御かたきなり、教主釈尊の御前にて・かならず・うたへ申すべし、其の時うらみさせ給うなよ、日月にあらずとも地神も海


神も・きかれよ日本の守護神も・きかるべし、あへて日蓮が曲意はなきなり、いそぎいそぎ御計らいあるべし、ちちせさせ給いて日蓮をうらみさせ給うなよ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐。

  七月十四日                     日蓮花押

   妙一女御返事

妙一女御返事

                    弘安三年十月 五十九歳御作

去る七月中旬の比、真言・法華の即身成仏の法門・大体註し進らせ候、其の後は一定法華経の即身成仏を御用い候らん、さなく候ては当世の人人の得意候・無得道の即身成仏なるべし不審なり、先日書きて進らせ候いし法門能く心を留めて御覧あるべし、其の上即身成仏と申す法門は世流布の学者は皆一大事とたしなみ申す事にて候ぞ、就中予が門弟は万事をさしをきて此の一事に心を留む可きなり。

建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間・在在処処にして申し宣べたる法門繁多なりといへども所詮は只此の一途なり、世間の学者の中に真言家に立てたる即身成仏は釈尊所説の四味三教に接入したる大日経等の三部経に・別教の菩薩の授職灌頂を至極の即身成仏等と思う、是は七位の中の十回向の菩薩の歓喜地を証得せる体為なり、全く円教の即身成仏の法門にあらず、仮令経文にあるよしを訇るとも歓喜行証得の上に得たるところの功徳を沙汰する分斉にてあるなり、是れ十地の菩薩の因分の所行にして十地等覚は果分を知らず、円教の心を以て奪つていへば六即の中の名字観行の一念に同じ、与えて云う時は観行即の事理和融にして理慧相応の観行に及ばず、或は菩提心論の文により・或は大日経の三部の文によれども即身成仏にこそ・あらざらめ・生身得忍にだ


にも云いよせざる法門なり。

されば世間の人人は菩提心論の唯真言法中の文に落されて即身成仏は真言宗に限ると思へり、之に依つて正しく即身成仏を説き給いたる法華経をば戯論等云云、止観五に云く「設し世を厭う者も下劣の乗を翫んで枝葉に攀附す狗作務に狎れ獼猴を敬いて帝釈と為し瓦礫を崇めて是れ明珠とす此の黒闇の人豈道を論ず可けんや」等云云、此の意なるべし、歎かわしきかな華厳・真言・法相の学者・徒に・いとまをついやし・即身成仏の法門をたつる事よ、夫れ先ず法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし、提婆品に云く「須臾の頃に於て便ち正覚を成ず」等云云乃至「変じて男子と成る」と、又云く「即ち南方無垢世界に往く」云云、伝教大師云く「能化の竜女も歴劫の行無く所化の衆生も亦歴劫無し能化所化倶に歴劫無し妙法経力即身成仏す」等云云、又法華経の即身成仏に二種あり迹門は理具の即身成仏・本門は事の即身成仏なり、今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば肉身を其のまま本有無作の三身如来と云える是なり、此の法門は一代諸教の中に之無し文句に云く「諸教の中に於て之を秘して伝えず」等云云。

又法華経の弘まらせ給うべき時に二度有り所謂在世と末法となり、修行に又二意有り仏世は純円一実・滅後末法の今の時は一向本門の弘まらせ給うべき時なり、迹門の弘まらせ給うべき時は已に過ぎて二百余年になり、天台伝教こそ其の能弘の人にてましまし候いしかどもそれもはや入滅し給いぬ、日蓮は今時を得たり豈此の所嘱の本門を弘めざらんや、本迹二門は機も法も時も遙に各別なり。

問うて云く日蓮計り此の事を知るや、答えて云く「天親・竜樹・内鑑冷然」等云云、天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得んや、安楽行品に云く末世法滅の時」云云、此等の論師人師・末法闘諍堅固の時・地涌出現