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日蓮大聖人・池田大作

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南条兵衛七郎殿御書  (6/6) 二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも…
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もつめずして候べきか、よくよくゆはき事なり、法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候いき、このごろの人の申すもこれにすぎず、結句は法門はかなわずしてよせてたたかひにし候なり、念仏者は数千万かたうど多く候なり、日蓮は唯一人かたうどは一人もこれなし、今までもいきて候はふかしぎなり、今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし・うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん・うちもらされて・いままでいきてはべり、いよいよ法華経こそ信心まさり候へ、第四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども・法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず唯日蓮一人こそよみはべれ・我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。

もし・さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし、日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば・よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ・後にうらみさせ給うな、但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給い候はば・あはれ・とくとく見参してみづから申しひらかばや、語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候いぬ、恐恐謹言。

  文永元年十二月十三日                日蓮花押

   なんでうの七郎殿


薬王品得意抄

                    文永二年 四十四歳御作

                    与 上野時光妻

此の薬王品の大意とは此の薬王品は第七の巻二十八品の中には第二十三の品なり、此の第一巻に序品方便品の二品有り序品は二十八品の序なり、方便品より人記品に至るまで八品は正には二乗作仏を明し傍には菩薩凡夫の作仏を明かす、法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品は上の八品を末代の凡夫の修行す可き様を説くなり、又涌出品は寿量品の序なり、分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり、然れば此の薬王品は方便品等の八品並びに寿量品を修行す可き様を説きし品なり。

此の品に十の譬有り、第一大海の譬、先ず第一の譬を粗申す可し、此の南閻浮提に二千五百の河あり、西倶耶尼に五千の河あり総じて此の四天下に二万五千九百の河あり、或は四十里乃至百里・一里・一町・一尋等の河之有り、然りと雖も此の諸河は総じて深浅の事大海に及ばず、法華已前の華厳経・阿含経・方等経・般若経・深密経・阿弥陀経・涅槃経・大日経・金剛頂経・蘇悉地経・密厳経等の釈迦如来の所説の一切経・大日如来の所説の一切経・阿弥陀如来の所説の一切経・薬師如来の所説の一切経・過去・現在・未来三世の諸仏所説の一切経の中に法華経第一なり、譬えば諸経は大河・中河・小河等の如し法華経は大海の如し等と説くなり、河に勝れたる大海に十の徳有り、一に大海は漸次に深し河は爾からず、二に大海は死屍を留めず河は爾らず、三に大海は本の名字を失う河は爾らず、四に大海は一味なり河は爾らず、五に大海は宝等有り河は爾らず、六に大海は極めて深し河は爾らず、七に大海は広大無量なり河は爾らず、八に大海は大身の衆生等有り河は爾らず、九に大海は潮の増減有り河は爾らず、十に大海は大雨・大河を受けて盈溢無し河は爾らず。

此の法華経には十の徳有り諸経には十の失有り、此の経は漸次深多にして五十展転なり諸経には猶一も無し況


や二三四乃至五十展転をや河は深けれども大海の浅きに及ばず諸経は一字・一句・十念等を以て十悪・五逆等の悪機を摂すと雖も未だ一字一句の随喜五十展転には及ばざるなり、此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・謗法を為さん者をや、設い諸経を謗ずと雖も法華経に背かざれば必ず仏道を成ず、設い一切経を信ずと雖も法華経に背かば必ず阿鼻大城に堕つ、乃至第八には大海は大身の衆生あり等と云うは大海には摩竭大魚等大身の衆生之有り、無間地獄と申すは縦広八万由旬なり五逆の者無間地獄に堕ちては一人にて必ず充満す、此の地獄の衆生は五逆の者大身の衆生なり、諸経の小河大河の中には摩竭大魚之無し法華経の大海には之有り、五逆の者仏道を成す是れ実には諸経に之無し諸経に之有りと云うと雖も実には未顕真実なり、故に一代聖教を諳し天台智者大師の釈に云く他経は但菩薩に記して二乗に記せず乃至但善に記して悪に記せず、今経は皆記す等云云、余は且く之を略す。

第二には山に譬う、十宝山等とは、山の中には須弥山第一なり、十宝山とは一には雪山・二には香山・三には軻梨羅山・四には仙聖山・五には由乾陀山・六には馬耳山・七には尼民陀羅山・八には斫伽羅山・九には宿慧山・十には須弥山なり、先の九山とは諸経諸山の如し、但し一一に財あり須弥山は衆財を具して其の財に勝れたり、例せば世間の金の閻浮檀金に及ばざるが如し、華厳経の法界唯心・般若の十八空・大日経の五相成身・観経の往生より法華経の即身成仏勝れたるなり、須弥山は金色なり、一切の牛馬・人天・衆鳥等此の山に依れば必ず本色を失つて金色なり余山は爾らず一切の諸経は法華経に依れば本の色を失う例せば黒色の物の日月の光に値えば色を失うが如し諸経の往生成仏等の色は法華経に値えば必ず其の義を失う。

第三には月に譬う衆星は或は半里或は一里或は八里或は十六里には過ぎず、月は八百余里なり衆星は光有りと雖も月に及ばず、設い百千万億乃至一四天下・三千大千・十方世界の衆星之を集むとも一の月の光に及ばず、何に