Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御講聞書  (36/41) 霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり
842

女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直三千大千世界是なり云云。

一置不呵責の文の事

仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。

一異念無く霊山浄土へ参る可き事

仰に云く異念とは不信の事なり若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。

一不可失本心の事

仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に


於ては三五の下種の法門なり、若し善友に値う時んば失う所の本心を忽に見得するなり、所謂迦葉・舎利弗等是なり、善友とは釈迦如来・悪友とは第六天の魔王・外道・婆羅門是なり、所詮末法に入つて本心とは日蓮弘通の南無妙法蓮華経是なり、悪友とは法然・弘法・慈覚・智証等是なり、若し此の題目の本心を失せんに於ては又三五塵点を経べきなり、但、如是展転至無数劫なるべし、失とは無明の酒に酔いたる事なり仍て本心を失うと云うなり、此の酔をさますとは権教を捨てしむるを云うなり云云。

一天台大師を魔王障礙せし事

仰に云く此の事は随分の秘蔵なり、其の故は天台大師・一心三観・一念三千の観法を説き顕さんとし給いしかば父母・左右の膝に住して悩まし奉り障礙し給いしなり、是れ即ち第六天の魔王が父母の形を現じて障礙せしなり、終に魔王に障礙せられ給わずして摩訶止観の法門起れり、何に况や今日蓮が弘むる南無妙法蓮華経は三世の諸仏の成道の師・十方薩埵の得道の師匠たり、其の上・正像二千年の仏法は爾前迹門なれば、魔王自身・障礙をなさずともなるべし、今末法の時は、所弘の法は、法華経・本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経なり、能弘の導師は本化地涌の大菩薩にてましますべし、然る間魔王自身下りて障礙せずんば叶う可からざるなり、仍つて自身下りたる事分明なり、所謂道隆・良観・最明寺等是なり、然りと雖も諸天善神等は日蓮に力を合せ給う故に竜口までもかちぬ、其の外の大難をも脱れたり、今は魔王もこりてや候うらん、日蓮死去の後は残党ども軍を起すべきか、故に夫れも落居は叶う可からざるなり、其の故は第六天の魔王の眷属日本国に四十九億九万四千八百二十八人なりしが・今は日蓮に降参したる事多分なり、経に云く悪鬼入其身とは是なり、此の合戦の起りも、所詮南無妙法蓮華経是なり、魔王に於て体の魔王・用の魔王あり、体の魔王とは法性同共の魔王なり妙法の法是なり、用の魔王とは此れより出生する第六天の魔王なり、用の魔王は障礙をなす、然れども体用同共の諸法実相の一理なり、唯有一門の智慧の門に入り、無明法性一体なるべきなり云云、所謂摩訶止観の


大事の法門是なり、法華経の一代説教に勝れたるは此の故なり、一念三千とは是なり、法華経第三に云く魔及魔民皆護仏法云云。

一法華経極理の事

仰に云く迹門には二乗作仏・本門には久遠実成此をさして極理と云うなり、但し是も未だ極理にたらず、迹門にして極理の文は諸仏智慧甚深無量の文是れなり、其の故は此の文を受けて文句の三に云く竪に如理の底に徹し横に法界の辺を窮むと釈せり、さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり、爰を以て釈に云く惣じて一経を結するに唯だ四のみ、其の枢柄を撮つて之を授与す云云、上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり云云。

一妙法蓮華経五字の蔵の事

仰に云く此の意は妙法の五字の中には一念三千の宝珠あり五字を蔵と定む、天台大師玄義の一に判ぜり、所謂此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり云云、法華経の第四に云く是れ法華経蔵と云云、妙華厳法阿含蓮方等華般若経涅槃、又云く妙涅槃法般若蓮方等華阿含経華厳、已上妙法蓮華経の五字には十界三千の宝珠あり、三世の諸仏は此の五字の蔵の中より或は華厳の宝を取り出だし或は阿含方等般若の宝を取り出だし種種説法し給えり、加之・論師・人師等の疏釈も悉く此の五字の中より取り出だして一切衆生に与え給えり、此等は皆五字の中より取り出だし給えども妙法蓮華経の袋をば持ち給わず、所詮五字は上行菩薩の付属にして更に迹化の菩薩・諸論師いろはざる題目なり、仍つて上行所伝の南無妙法蓮華経は蔵なり、金剛不壊の袋なり此の袋をそのまま日本国の一切衆生には与え給えり、信心を以て此の財宝を受取るべきなり、今末法に入つては日蓮等の類い受取る所の如意宝珠なり云云。