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日蓮大聖人・池田大作

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下山御消息  (21/22) 教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻…
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国に引回し須弥山を蓋として十方世界の四天王を集めて波際に立て並べてふせがするとも法華経の敵となり教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ日本守護の天照太神・正八幡等もいかでか・かかる国をばたすけ給うべきいそぎいそぎ治罰を加えて自科を脱がれんとこそはげみ給うらめをそく科に行う間・日本国の諸神ども四天大王にいましめられてやあるらん知り難き事なり教大師云く「竊に以れば菩薩は国の宝なること法華経に載せ大乗の利他は摩訶衍の説なり弥天の七難は大乗経に非ずんば何を以てか除くことを為ん、未然の大災は菩薩僧に非ずんば豈冥滅することを得んや」等云云、而るを今大蒙古国を調伏する公家武家の日記を見るに或は五大尊或は七仏薬師或は仏眼或は金輪等云云、此れ等の小法は大災を消すべしや還著於本人と成りて国忽ちに亡びなんとす、或は日吉の社にして法華の護摩を行うといへども不空三蔵が悞れる法を本として行う間祈祷の儀にあらず、又今の高僧等は或は東寺の真言或は天台の真言なり東寺は弘法大師・天台は慈覚・智証なり、此の三人は上に申すが如く大謗法の人人なり、其れより已外の諸僧等は或は東大寺の戒壇の小乗の者なり、叡山の円頓戒は又慈覚の謗法に曲げられぬ彼の円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にあらず旁叶うべき事にはあらず、只今国土やぶれなん・後悔さきにたたじ不便・不便と語り給いしを千万が一を書き付けて参らせ候。

但し身も下賤に生れ心も愚に候へば此の事は道理かとは承わり候へども国主も御用いなきかの故に鎌倉にては如何が候けん不審に覚え候、返す返すも愚意に存じ候はこれ程の国の大事をばいかに御尋ねもなくして両度の御勘気には行はれけるやらんと聞食しほどかせ給はぬ人人の或は道理とも或は僻事とも仰せあるべき事とは覚え候はず、又此の身に阿弥陀経を読み候はぬも併ら御為父母の為にて候、只理不尽に読むべき由を仰せを蒙り候はば其の時重ねて申すべく候、いかにも聞食さずしてうしろの推義をなさん人人の仰せをばたとひ身は随う様に候


えども心は一向に用いまいらせ候まじ、又恐れにて候へども兼ねてつみしらせまいらせ候、此の御房は唯一人おはします若しやの御事の候はん時は御後悔や候はんずらん世間の人人の用いねばとは一旦のをろかの事なり上の御用あらん時は誰人か用いざるべきや、其の時は又用いたりとも何かせん人を信じて法を信ぜず、又世間の人人の思いて候は親には子は是非に随うべしと君臣師弟も此くの如しと此れ等は外典をも弁えず内典をも知らぬ人人の邪推なり外典の孝経には子父・臣君諍うべき段もあり、内典には恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なりと仏定め給いぬ、悉達太子は閻浮第一の孝子なり父の王の命を背きてこそ父母をば引導し給いしか、比干が親父紂王を諫暁して胸をほられてこそ賢人の名をば流せしか、賤み給うとも小法師が諫暁を用ひ給はずば現当の御歎きなるべし、此れは親の為に読みまいらせ候はぬ阿弥陀経にて候へばいかにも当時は叶うべしとはおぼへ候はず、恐恐申し上げ候。

  建治三年六月 日                僧 日永

   下山兵庫五郎殿御返事


本尊問答抄

                   弘安元年九月 五十七歳御作

                   与 浄顕房日仲

問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、問うて云く何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。

疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、答えて云く是れ私の義にあらず上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり、但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは彼は常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり、文殊問経・般舟三昧経・請観音経等による、是れ爾前の諸経の内・未顕真実の経なり、半行半坐三昧には二あり、一には方等経の七仏・八菩薩等を本尊とす彼の経による、二には法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし、不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり。