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日蓮大聖人・池田大作

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四恩抄  (2/5) 此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五…
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にふれて障をなす、法華経は一文・一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思う故に方便をまはして留難をなし経を信ずる心をすてしめんと・たばかる、而るに仏の在世の時は濁世なりといへども五濁の始たりし上仏の御力をも恐れ人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし時だにも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき、何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや、況や世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に・そねみ・ねたまれん事は・おびただしかるべきか、故に法華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、始に此の文を見候いし時は・さしもやと思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて随分世間の事おだやか・ならんと思いき、世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり、是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賤・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、又信じて候いしかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻・一品・題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経


を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。

凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・はげみ候へ、是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か、無量劫の間・六道・四生を輪回し候いけるには或は謀叛をおこし強盗・夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪・死罪にも行はれ候らめ、是は法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依つて悪業の衆生に讒言せられて・かかる身になりて候へば定て後生の勤には・なりなんと覚え候、是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ、又止事なくめでたき事侍り無量劫の間六道に回り候けるには多くの国主に生れ値ひ奉りて或は寵愛の大臣・関白等ともなり候けん、若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか・法華経流布の国主に値ひ奉り其の国にて法華経の御名を聞いて修行し是を行じて讒言を蒙り流罪に行われまいらせて候国主には未だ値いまいらせ候はぬか、法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず何に況んや見ることを得て受持し読誦せんをや」と云云、されば此の讒言の人・国主こそ我が身には恩深き人には・をわしまし候らめ。

仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を犯さざれども其の業を成就す、然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも恩重きは今の某が父母なるか、三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経


を信じ今度・生死を離るべき国主に値い奉れり、争か少分の怨に依つておろかに思ひ奉るべきや、四には三宝の恩、釈迦如来・無量劫の間・菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、其の一分をば我が身に用ひ給ふ、今六十三分をば此の世界に留め置きて五濁雑乱の時・非法の盛ならん時・謗法の者・国に充満せん時、無量の守護の善神も法味をなめずして威光・勢力減ぜん時、日月光りを失ひ天竜雨をくださず地神・地味を減ぜん時、草木・根茎・枝葉・華菓・薬等の七味も失せん時、十善の国王も貪瞋癡をまし父母・六親に孝せず・したしからざらん時、我が弟子無智・無戒にして髪ばかりを剃りて守護神にも捨てられて活命のはかりごとなからん比丘比丘尼の命のささへとせんと誓ひ給へり、又果地の三分の功徳・二分をば我が身に用ひ給ひ、仏の寿命・百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿命を留め置きて我等に与へ給ふ恩をば四大海の水を硯の水とし一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず、故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて・是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし、古の聖人は雪山童子・常啼菩薩・薬王大士・普明王等・此等は皆我が身を鬼のうちかひとなし身の血髄をうり臂をたき頭を捨て給いき、然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん、然るに心地観経・梵網経等には仏法を学し円頓の戒を受けん人は必ず四恩を報ずべしと見えたり、某は愚癡の凡夫・血肉の身なり三惑一分も断ぜず只法華経の故に罵詈・毀謗せられて刀杖を加えられ流罪せられたる