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日蓮大聖人・池田大作

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太田殿女房御返事  (3/4) 羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れ…
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弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり、但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし、菩提心論は竜樹の論・不空の論と申すあらそい有り、此れはいかにも候へ・さてをき候ぬ、但不審なる事は大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし文と申し道理きわまれり、菩提心論が竜樹の論とは申すとも大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上唯の一字は強と見へて候、何の経文に依りて唯の一字をば置いて法華経をば破し候いけるぞ証文尋ぬべし、竜樹菩薩の十住毘婆娑論に云く「経に依らざる法門をば黒論」と云云自語相違あるべからず、大論の一百に云く「而も法華等の阿羅漢の授決作仏乃至譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ、但菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が水火の異をば・いかんせんと見候に此れは竜樹の異説にはあらず訳者の所為なり、羅什は舌やけず不空は舌やけぬ、妄語はやけ実語はやけぬ事顕然なり、月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、羅什来らせ給いて前後一百六十四人が悞も顕れ新訳の十一人が悞も顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ私の義にはあらず感通伝に云く「絶後光前」と云云、前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて・すこしこざかしく候なり、感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俟つ事」されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり、何に況や次下に「諸教の中に於て闕いて書せず」と・かかれて候・存外のあやまりなり。

即身成仏の手本たる法華経をば指をいて・あとかたもなき真言に即身成仏を立て剰え唯の一字を・をかるる条・天下第一の僻見なり此れ偏に修羅根性の法門なり、天台智者大師の文句の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候、此れこそ即身成仏の明文にては候へ、


不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地の法を説く諸教の中に於て闕いて書せず」とかかれて候なり、されば此の論の次下に即身成仏をかかれて候が・あへて即身成仏にはあらず生身得忍に似て候、此の人は即身成仏は・めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義はあへて・うかがわぬ人人なり、いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり、天台大師の「於諸教中秘之不伝」の釈は千且千且恐恐。

外典三千余巻は政当の相違せるに依つて代は濁ると明す、内典五千・七千余巻は仏法の僻見に依つて代濁るべしとあかされて候、今の代は外典にも相違し内典にも違背せるかのゆへにこの大科一国に起りて已に亡国とならむとし候か、不便不便。

  七月二日                      日蓮花押

   太田殿女房御返事


太田入道殿御返事

                    建治元年十一月 五十四歳御作

貴札之を開いて拝見す、御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ、維摩詰経に云く「爾の時に長者維摩詰自ら念ずらく寝ねて牀に疾む云云、爾の時に仏・文殊師利に告げたまわく、汝維摩詰に行詣して疾を問え」云云、大涅槃経に云く「爾の時に如来乃至身に疾有るを現じ、右脇にして臥したもう彼の病人の如くす」云云、法華経に云く「少病少悩」云云、止観の第八に云く「若し毘耶に偃臥し疾に託いて教を興す、乃至如来滅に寄せて常を談じ病に因つて力を説く」云云、又云く「病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む」云云、大涅槃経に云く「世に三人の其の病治し難き有り一には大乗を謗ず・二には五逆罪・三には一闡提是くの如き三病は・世の中の極重なり」云云、又云く「今世に悪業成就し乃至必ず地獄なるべし乃至三宝を供養するが故に地獄に堕せずして現世に報を受く所謂頭と目と背との痛み」等云云、止観に云く「若し重罪有つて乃至人中に軽く償うと此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」云云、竜樹菩薩の大論に云く「問うて云く若し爾れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず而も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、天台此の論を承けて云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」云云、故に論に云く「余経は秘密に非ず法華を秘密と為すなり」云云、止観に云く「法華能く治す復称して妙と為す」云云、妙楽云く「治し難きを能く治す所以に妙と称す」云云、大経に云く「爾の時に王舎大城の阿闍世王其の性弊悪にして乃至父を害し已つて心に悔熱を生ず乃至心悔熱するが故に徧