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日蓮大聖人・池田大作

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祈祷抄  (4/12) 仏・法華経をとかせ給いて年数二千二百余年な…
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二四天下・一四天下の微塵数の菩薩・復八世界微塵数の衆生・薬王品の八万四千の菩薩・妙音品の八万四千の菩薩・又四万二千の天子・普門品の八万四千・陀羅尼品の六万八千人・妙荘厳王品の八万四千人・勧発品の恒河沙等の菩薩三千大千世界微塵数等の菩薩・此れ等の菩薩を委く数へば十方世界の微塵の如し、十方世界の草木の如し、十方世界の星の如し、十方世界の雨の如し、此等は皆法華経にして仏にならせ給いて、此の三千大千世界の地上・地下・虚空の中にまします、迦葉尊者は雞足山にあり、文殊師利は清凉山にあり、地蔵菩薩は伽羅陀山にあり、観音は補陀落山にあり、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の竜王阿修羅王は海底海畔にあり、帝釈は忉利天に梵王は有頂天に・魔醯修羅は第六の佗化天に・四天王は須弥の腰に・日月・衆星は我等が眼に見へて頂上を照し給ふ、江神・河神・山神等も皆法華経の会上の諸尊なり。

仏・法華経をとかせ給いて年数二千二百余年なり、人間こそ寿も短き故に仏をも見奉り候人も侍らぬ、天上は日数は永く寿も長ければ併ながら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり人間の五十年は四王天の一日一夜なり、此れ一日一夜をはじめとして三十日は一月十二月は一年にして五百歳なり、されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり、されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて・四十四日いまだ二月にたらず、帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすきず、わづかの間に・いかでか仏前の御誓並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべきなんど思いつらぬれば・たのもしき事なり、されば法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし・方諸の水をまねくがごとし・磁石の鉄をすうがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし・世間の法には我がおもはざる事も父母・主君・師匠・妻子をろかならぬ友なんどの申す事は恥ある者は意には・あはざれども名利をもうしなひ、寿ともなる事も侍るぞかし、何に況や我が心から


をこりぬる事は、父母・主君・師匠なんどの制止を加うれどもなす事あり。

さればはんよきと云いし賢人は我頸を切つてだにこそけいかと申せし人には与へき、季札と申せし人は約束の剣を徐の君が塚の上に懸けたりき、而るに霊山会上にして即身成仏せし竜女は・小乗経には五障の雲厚く三従のきづな強しと嫌はれ、四十余年の諸大乗経には或は歴劫修行にたへずと捨てられ、或は初発心時・便成正覚の言も有名無実なりしかば女人成仏もゆるさざりしに・設い人間天上の女人なりとも成仏の道には望なかりしに・竜畜下賤の身たるに女人とだに生れ年さへ・いまだ・たけず・わづかに八歳なりき、かたがた思ひもよらざりしに文殊の教化によりて海中にして・法師・提婆の中間わづかに宝塔品を説かれし時刻に仏になりたりし事は・ありがたき事なり、一代超過の法華経の御力にあらずば・いかでか・かくは候べき、されば妙楽は「行浅功深以顕経力」とこそ書かせ給へ、竜女は我が仏になれる経なれば仏の御諫なくとも・いかでか法華経の行者を捨てさせ給うべき、されば自讃歎仏の偈には「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」等とこそ・すすませさせ給いしか、竜女の誓は其の所従の「非口所宣非心所測」の一切の竜畜の誓なり娑竭羅竜王は竜畜の身なれども子を念う志深かりしかば大海第一の宝如意宝珠をもむすめにとらせて即身成仏の御布施にせさせつれ此の珠は直三千大千世界にかふる珠なり。

提婆達多は師子頬王には孫・釈迦如来には伯父たりし斛飯王の御子・阿難尊者の舎兄なり、善聞長者のむすめの腹なり、転輪聖王の御一門・南閻浮提には賤しからざる人なり、在家にましましし時は夫妻となるべきやすたら女を悉達太子に押し取られ宿世の敵と思いしに、出家の後に人天大会の集まりたりし時・仏に汝は癡人・唾を食へる者とのられし上・名聞利養深かりし人なれば仏の人に・もてなされしをそねみて・我が身には五法を行じて仏よりも尊げになし・鉄をのして千輻輪につけ・螢火を集めて白毫となし・六万宝蔵・八万宝蔵を胸に浮べ、象頭山に戒


場を立て多くの仏弟子をさそひとり、爪に毒を塗り仏の御足にぬらむと企て・蓮華比丘尼を打殺し・大石を放て仏の御指をあやまちぬ、具に三逆を犯し結句は五天竺の悪人を集め仏並びに御弟子檀那等にあだをなす程に、頻婆娑羅王は仏の第一の御檀那なり、一日に五百輛の車を送り日日に仏並びに御弟子を供養し奉りき、提婆そねむ心深くして阿闍世太子を語いて父を終に一尺の釘七つをもつてはりつけになし奉りき、終に王舎城の北門の大地破れて阿鼻大城に墜ちにき、三千大千世界の人一人も是を見ざる事なかりき、されば大地微塵劫は過ぐとも無間大城をば出づべからずとこそ思ひ候に・法華経にして天王如来とならせ給いけるにこそ不思議に尊けれ、提婆達多・仏になり給はば語らはれし所の無量の悪人、一業所感なれば皆無間地獄の苦は・はなれぬらん、是れ偏に法華経の恩徳なり、されば提婆達多並びに所従の無量の眷属は法華経の行者の室宅にこそ住せ給うらめとたのもし。

諸の大地微塵の如くなる諸菩薩は等覚の位まで・せめて元品の無明計りもちて侍るが・釈迦如来に値い奉る元品の大石をわらんと思ふに、教主釈尊・四十余年が間は「因分可説果分不可説」と申して妙覚の功徳を説き顕し給はず、されば妙覚の位に登る人・一人もなかりき・本意なかりし事なり、而るに霊山八年が間に「唯一仏乗名為果分」と説き顕し給いしかば・諸の菩薩・皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等しく・須弥山の頂に登つて四方を見るが如く・長夜に日輪の出でたらんが如く・あかなくならせ給いたりしかば・仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ・又行者に替らじとは・おぼしめすべからず、されば「我不愛身命但惜無上道・不惜身命当広説此経」等とこそ誓ひ給いしか。

其の上慈父の釈迦仏・悲母の多宝仏・慈悲の父母等同じく助証の十方の諸仏・一座に列らせ給いて、月と月とを集めたるが如く・日と日とを並べたるが如く・ましましし時、「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦せんものなる、今仏前に於て自ら誓言を説け」と三度まで諫させ給いしに、八方・四百万億那由佗の国