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日蓮大聖人・池田大作

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富木殿御書  (2/2) 一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ
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らる智人は恐怖すべし大乗を謗ずる故に、天親菩薩は舌を切らんと云い馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い吉蔵大師は身を肉橋と為し玄奘三蔵は此れを霊地に占い不空三蔵は疑いを天竺に決し伝教大師は此れを異域に求む皆上に挙ぐる所は経論を守護する故か。

今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆上主上・上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫・檀越なり、円仁・慈覚大師云く「故に彼と異り」円珍・智証大師云く「華厳・法華を大日経に望むれば戯論と為す」空海弘法大師云く「後に望むれば戯論と為す」等と云云、此の三大師の意は法華経は已・今・当の諸経の中の第一なり然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり等云云、此の義心有らん人信を取る可きや不や。今日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも此に超過し以て恐怖すべきこと百千万億倍なれば持戒・邪見の高僧等なり、問うて云く上に挙ぐる所の三大師を謗法と疑うか叡山第二の円澄寂光大師・別当光定大師・安慧大楽大師・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳・此等の数百人、弘法の御弟子実慧・真済・真雅等の数百人並びに八宗・十宗等の大師先徳・日と日と・月と月と・星と星と・並びに出でたるが如し、既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑わず汝何なる智を以て之を難ずるや云云。

此等の意を以て之を案ずるに我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ、恐恐謹言。

  八月二十三日                    日蓮花押

   富木殿

鵞目一結給び候畢んぬ、志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか。


御衣並単衣御書

                     建治元年 五十四歳御作

御衣の布並びに御単衣給び候い畢んぬ鮮白比丘尼と申せし人は生れさせ給いて御衣をたてまつりたりけり、生長するほどに次第にこの衣大になりけり、後に尼とならせ給いければ法衣となりにけり、ついに法華経の座にして記莂をさづかる一切衆生喜見如来これなり、又法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし、物たねと申すもの一なれども植えぬれば多くとなり竜は小水を多雨となし人は小火を大火となす、衣かたびらは一なれども法華経にまいらせ給いぬれば法華経の文字は六万九千三百八十四字・一字は一仏なり、此の仏は再生敗種を心符とし顕本遠寿を其の寿とし常住仏性を咽喉とし一乗妙行を眼目とせる仏なり、応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり、この衣をつくりてかたびらをきそえて法華経をよみて候わば日蓮は無戒の比丘なり法華経は正直の金言なり、毒蛇の珠をはき伊蘭の栴檀をいだすがごとし、恐恐謹言。

  九月二十八日                    日蓮花押

   御返事


観心本尊得意抄

                    建治元年十一月 五十四歳御作

鵞目一貫文厚綿の白小袖一つ筆十管墨五丁給び畢んぬ。

身延山は知食如く冬は嵐はげしくふり積む雪は消えず極寒の処にて候間・昼夜の行法もはだうすにては堪え難く辛苦にて候に此の小袖を著ては思い有る可からず候なり、商那和修は付法蔵の第三の聖人なり、此の因位を仏説いて云く「乃往過去に病の比丘に衣を与うる故に生生・世世に不思議自在の衣を得たり」、今の御小袖は彼に似たり此の功徳は日蓮は之を知る可からず併ながら釈迦仏に任せ奉り畢んぬ。

抑も今の御状に云く教信の御房・観心本尊抄の未得等の文字に付て迹門をよまじと疑心の候なる事・不相伝の僻見にて候か、去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候しが其の通りを以て御教訓有る可く候、所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり、設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。

一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の